■「一」つの括り
「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。存在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかというと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙を見ています。であれば生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとまた別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこととなります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのもの―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのもの」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあるそれ―という言葉が相当します。
この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提としているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠組みをもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲があるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいます。
陰陽を成り立たせるにも五行の概念で分析を進めるにもまず大前提としてこの「一」の括りを意識することが必要です。この一つに括られているものを、二つの観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけですけれども、一つのものをよくよく観ていくための概念的な操作を陰陽論ではしているわけです。
同じようにこれを五つの観点から見るという概念的な操作をすることを五行論と呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。
陰陽論も五行論も一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているものです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識することが大切です。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間にある表現されていないもの、いわば言葉の裏側を認識することがとても大切なのです。
「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。存在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかというと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙を見ています。であれば生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとまた別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこととなります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのもの―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのもの」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあるそれ―という言葉が相当します。
この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提としているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠組みをもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲があるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいます。
陰陽を成り立たせるにも五行の概念で分析を進めるにもまず大前提としてこの「一」の括りを意識することが必要です。この一つに括られているものを、二つの観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけですけれども、一つのものをよくよく観ていくための概念的な操作を陰陽論ではしているわけです。
同じようにこれを五つの観点から見るという概念的な操作をすることを五行論と呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。
陰陽論も五行論も一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているものです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識することが大切です。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間にある表現されていないもの、いわば言葉の裏側を認識することがとても大切なのです。
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■「一」とは何か
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。この「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょうか。
来年私はある会で講演を頼まれていますので、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみました。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているところがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきました。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのではないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示している符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつれて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼らの影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げる必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないということです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどうかはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという意識にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこに言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければならないのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉によって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということです。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側ではなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。この姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。
一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。この「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょうか。
来年私はある会で講演を頼まれていますので、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみました。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているところがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。
東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきました。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのではないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・
けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示している符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつれて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼らの影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げる必要があります。
けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないということです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどうかはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという意識にかかっているわけです。
ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこに言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければならないのです。
「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉によって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということです。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側ではなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。この姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。
一をもってこれを貫く
一元流鍼灸術という名前の通り、一元流鍼灸術では一について学んでいます。気一元の生命、その表現としてのさまざまな診断部位の再発見。そしてその位置の個性にしたがったそれぞれの診断部位の特徴に基づいた診方。そしてより小さく傾きが多く個性的な経穴診までを統一された考えかたでみていこうとしています。
そのため、学び、診、感じとり、アプローチするということについて、これまで語り続けているわけです。一の観点というのは、基礎から応用まで自在に対処していくことのできる魔法の杖のようなものです。ただしこの杖を使うには条件があります。それは自分で感じ自分で考えるということです。この部分を誰かに頼っているようではいつまでたっても応用自在の位置を得ることはできません。
産まれるということは父母の精が合体して一つとなることから始まります。これが生命の始まりです。死ぬということはその気一元の生命が陰陽に離乖するということです。この陰陽離乖の姿を、魂魄が分かれるとも表現します。肉体と精神との分離ともいいますし、肉体と魂とが分かれることともいいますし、肉体から魂が抜けるという表現をすることもあります。陰陽に分離する以前が生命があるときで、生きているときです。この生きているときに病気になります。ですから死と生とはそのあり様がまったく異なるものです。統合されているものが生であり分離されているものが死であるともいえます。
一としてまとまっているときは生き、分離するときは死ぬ。この概念は経穴の状態を見る経穴診や全身の状態を診る脉診も含めて、すべての診断法に応用することができます。
一元流鍼灸術という名前の通り、一元流鍼灸術では一について学んでいます。気一元の生命、その表現としてのさまざまな診断部位の再発見。そしてその位置の個性にしたがったそれぞれの診断部位の特徴に基づいた診方。そしてより小さく傾きが多く個性的な経穴診までを統一された考えかたでみていこうとしています。
そのため、学び、診、感じとり、アプローチするということについて、これまで語り続けているわけです。一の観点というのは、基礎から応用まで自在に対処していくことのできる魔法の杖のようなものです。ただしこの杖を使うには条件があります。それは自分で感じ自分で考えるということです。この部分を誰かに頼っているようではいつまでたっても応用自在の位置を得ることはできません。
産まれるということは父母の精が合体して一つとなることから始まります。これが生命の始まりです。死ぬということはその気一元の生命が陰陽に離乖するということです。この陰陽離乖の姿を、魂魄が分かれるとも表現します。肉体と精神との分離ともいいますし、肉体と魂とが分かれることともいいますし、肉体から魂が抜けるという表現をすることもあります。陰陽に分離する以前が生命があるときで、生きているときです。この生きているときに病気になります。ですから死と生とはそのあり様がまったく異なるものです。統合されているものが生であり分離されているものが死であるともいえます。
一としてまとまっているときは生き、分離するときは死ぬ。この概念は経穴の状態を見る経穴診や全身の状態を診る脉診も含めて、すべての診断法に応用することができます。
■「一」シンプルイズベスト
一元流鍼灸術の基本のひとつはそのシンプルさにあります。このシンプルさの位置はどこにあるのか、ということが問題となります。
なにをもってシンプルとするのか、ということです。
シンプルさと短絡とは違います。短絡というのは思いついたことにしがみついてそこから物事の解釈を始めることです。シンプルさとは、問題の範疇を研究しつくしてその余分な贅肉をそぎとった果てにあるものです。
「動中に静あり」という言葉があります。軸がしっかりまっすぐに立っている駒は、速い速度で回れば回るほどまるで動きがないかのようにすっきりと一点を保って立ちます。この一点を保って立つということ、これが一元流の「一」の本体です。
どのような研究の果てにも、この軸を逸れてはいけない、その位置が、一元流のテキストの総論部分で示してあります。この一点、全体でもありゼロでもある地点、これがこの上なく重要なものとなるわけです。
一元流鍼灸術の基本のひとつはそのシンプルさにあります。このシンプルさの位置はどこにあるのか、ということが問題となります。
なにをもってシンプルとするのか、ということです。
シンプルさと短絡とは違います。短絡というのは思いついたことにしがみついてそこから物事の解釈を始めることです。シンプルさとは、問題の範疇を研究しつくしてその余分な贅肉をそぎとった果てにあるものです。
「動中に静あり」という言葉があります。軸がしっかりまっすぐに立っている駒は、速い速度で回れば回るほどまるで動きがないかのようにすっきりと一点を保って立ちます。この一点を保って立つということ、これが一元流の「一」の本体です。
どのような研究の果てにも、この軸を逸れてはいけない、その位置が、一元流のテキストの総論部分で示してあります。この一点、全体でもありゼロでもある地点、これがこの上なく重要なものとなるわけです。