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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■伴 尚志の黄老道研究論文


「黄老道から日本医学へ 」
http://1gen.jp/1GEN/KOUROU/

この年表のなかの、後漢に、太平道と五斗米道という初期道教について触れています。于吉はそ初期道教の元になった文献を作成した人です。この初期道教にはしかし、修行体系や体系的な理論などがなかったため、宗教とは認められていません。理論体系や修行体系を備えた道教がはじまったのは、四世紀ころに成立した茅山宗からであると考えられています。この茅山宗を作ったのは、本草家としても有名な陶弘景でした。

讖緯学説における五行論が儒教の春秋学を起源とし、春秋学が戦国時代末期の鄒衍を起源とすると考えられます。このことを、堕落した儒教思想が讖緯学説であり道教であるという風に言いかえることもできるでしょう。後世、儒教と道教とは対立関係にあるまったく別の学派―宗教と捉えられていますが、その根をたどれば実は同じなのですね。

老荘思想(老子や荘子の思想)は黄老道に深い影響を与えています。けれども、上記した通り黄老道と道教とはまったく異なるものです。道教における諸技法(呪術や護符)と老荘思想との関連はありません。そしてこの黄老道の果実として、『黄帝内経』はあるということは、東洋医学者としては抑えておくべきことであると思います。
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■推薦図書「道教とはなにか」坂出祥伸著

      「気の宗教」道教こそ、中国を理解するための鍵である

坂出祥伸著 中央公論新社刊 中公叢書 1,800円 2005年 初版発行

「発生当時の道教、すなわち太平道や五斗米道などは、呪術治療によって多くの信仰者を獲得しながら教勢を拡大したのであり、けっして当初から教理や教典があって信仰が確立したわけではない。道教の教理教典は、当時浸透しつつあった仏教への対抗上、仏教の教理や教典を模倣して作成されたのであり、儀礼も同様に仏教を模倣したのである。天帝に代わって老子が救済の神格として登場するのも、一種の権威づけだと思われる。仏寺に相当する宮廟や道観もまた仏教の模倣であろう。」(7p)と冒頭で道教についての概論を坂出氏は述べています。

後漢末期の混乱期に反権力的宗教組織である道教は、老子を神としているものの、老荘思想とはまったく別次元のものです。本書ではその基本が明確に説かれています。

また第七章では「道教と医薬」と題して黄帝内経の身体観および内景図にまで触れられています。「たしかに、西洋医学は身体の故障しか考えていない。しかし漢方医学では身体の全体を、さらに心をも診るのである。漢方医学は、正しくは黄帝内経医学と呼ぶ。それは鍼灸医学である。鍼灸では五臓のバランスが重視される。黄帝内経医学=鍼灸医学のめざすのは、養生つまり予防医学である。」(185p)と明らかにされています。

このほかにも本書は、道教ができる以前、支那大陸にあった咒術や仙道および医薬について触れ、さらに歴代の道教の特徴、内丹外丹、全真教の問題。および古代日本との交流。現代の道教状況について網羅的に述べています。これまでこれほどまとまった道教書はなかったのではないでしょうか。

小さな書物ではありますが非常に盛りだくさん。教科書的な明瞭な視点を提供してくれるものであると推薦いたします。
■ 坂出祥伸先生の気の概念


『中国思想における身体・自然・信仰』東方書店 坂出祥伸先生退休記
念論集「私は「気」の思想とどうかかわってきたのか」より(二〇〇一
年五月一一日)

中国思想は儒教であれ、道家の老子や荘子であれ、また道教であれ、
「気」の概念を共通の基礎としている。・・・(中略)・・・

人間の身体だけが「気」で成り立っているのではない。生命あるものす
べてが、「気」をその生命の根源としているのである。・・・(中略)
・・・

生命あるものばかりではない。この宇宙の間にあるすべての存在が「気」
から成り立つと考えられている。・・・(中略)・・・

戦国時代から前・後漢時代(前四世紀から後二世紀)にかけて、「気」
の観念の大きな枠組みはほぼ完成したといってよい。それは、この時期
に黄帝内経医学、本草学(薬物学)、天文気象学(実は占星術や望気術
などの呪術)が発達したからである。


かくて体系をととのえた「気」の観念は、その特徴を次のような五点に
整理できる。ただし、それらの特徴は互いに関連しあっている。

第一に、生命体、非生命体を問わずともに「気」から成る、と考えられ
ている。星も「気」であり、鉱物も「気」である。

第二に、「気」は宇宙に充満しており、始めも終わりもなく、連続して
いて分割できない。

第三に、「気」の連続性ということと関係があるのだが、部分と全体は
相互に関連しあっているという点であり、このことは近代科学の自然観
と根本的に異なる点である。鍼灸医学の身体観において、この点は明確
に現れている。

第四に、世界に終末が到来しても「気」は滅びることがないから、かな
らず再生する、という考えかたがある。

第五に、「気」の循環的変化は近代科学のように因果律による説明では
なく、感応作用に基づいている、と説明される。『周易』という儒教の
経典に対する唐時代、七世紀の学者・孔穎達の注釈に、感応の概念が明
確に説明されている。「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのお
のその気類に従っている」「感とは動くということ、応とは、その報い
である。すべて先になるのが感で、後のものは応である」と。


■ 坂出先生への伴 尚志によるコメント

>第一に、生命体、非生命体を問わずともに「気」から成る、
>と考えられている。星も「気」であり、鉱物も「気」である。

この、すべてが「気」から成るということがたいへん重要なことである
ということは、前の『気のコスモロジ―』石田秀実著の紹介で述べたと
おりです。これは本当に基礎的なことなのですが、しっかりとした理解
が根付いていないのは嘆かわしいことです。


>第二に、「気」は宇宙に充満しており、始めも終わりもなく、
>連続していて分割できない。

第一と分けて語るところに、この先生の丁寧さがあるかなと思います。
第一が本当に見えれば、この第二は本来は必要ないのですが、第三を導
き出すためにこの全体観・普遍性とでもいうものが必要となります。


>第三に、「気」の連続性ということと関係があるのだが、
>部分と全体は相互に関連しあっているという点であり、
>このことは近代科学の自然観と根本的に異なる点である。
>鍼灸医学の身体観において、この点は明確に現れている。

この鍼灸医学の身体観を語る際に重要なことは、気一元の場をどのよう
に定めるのかということであるということは言うまでもありません。そ
の設定がなければ、部分と全体の相互の関連性すなわち「相似象」とし
てこれを把握をすることはできません。ただし場の設定をする際に、そ
の場の個性をよく理解しておかなければならないということもまた、一
元流のテキストで述べられているとおりであり、この言葉を補完するも
のとなります。


>第四に、世界に終末が到来しても「気」は滅びることがない
>から、かならず再生する、という考えかたがある。

気の時空を超えた普遍性を理解していれば、ことにこの言を発する必要
はありません。キリスト教的な終末論に対して一撃を加えておこうとさ
れたのでしょう。


>第五に、「気」の循環的変化は近代科学のように因果律による
>説明ではなく、感応作用に基づいている、と説明される。

因果律と感応作用の違いがわかりにくいかと思います。孔穎達の「感と
は動くということ、応とは、その報いである。すべて先になるのが感で、
後のものは応である」という解説はまさに仏教的な因果の世界を想起さ
せます。

孔穎達のもう一つの言「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのお
のその気類に従っている」というのは、リアリティーが乏しいものです。
スウェーデンに生まれた天才的な霊能者であるスウェルデンボルグによ
るとこれは、死後の世界の説明です。生前の世界はこれが雑然と影響し
合っている、そこに生きるということのおもしろさダイナミックがある
とされています。

《易》は占筮の書ですから、「感応する」ということを前提として言葉
が展開されています。論理で考え尽くすのではなく、感応してその響き
を見いだす、そのような読み方をするわけです。よく感応するところは
美しいと感じ、感応が弱いところは醜いと感じます。いわゆる因果律に
はこの美醜の感覚はなく論理的な思考がそれを超えて存在しているわけ
です。

《易》の中孚〔注:内なる誠〕には有名な言葉が著されています。『鳴
鶴(めいかく)陰にあり、〔注:日陰で鶴が鳴き〕その子これに和す。
〔注:その子がこれに和して鳴く声がする。〕我れに好爵〔注:よしみ
を結ぶ杯:美しい心:天命にかなった目的〕あり。吾れ爾(なんじ)と
これをともにせん』

感応の書である《易》の下経の冒頭に咸〔注:感:無心の感応であるた
め咸という文字を用います〕が置かれています。これは、上経が万物の
創始者である天地(乾坤)から始まったのに対して、下経を人倫の発端
である感応から始めたものです。感応というのは時間経過や理屈が入り
込む以前の響きを感じ取る心の動きのことを言っているわけです。この
あたりのありかたについて『私心が全くなくなれば、ひろびろとした万
物感通の境地が開ける。』《易・繋辞伝》ともまた述べられています。
■ 石田秀実先生の気の概念と伴 尚志のコメント


『気のコスモロジ-』岩波書店 石田秀実著 2004年7月

まずは石田秀実先生から。この人は私が本当に尊敬している、求道的な学者で、まるで学問の道を逍遙游しているような人です。外気功によって放射される気を、「気」として研究される傾向があることに対して、根本的な疑問を投げかけています。そして、この先生の気の概念は、私のものと同じであり、一元流鍼灸術の気の概念も同じであるということを申し述べておきます。


「前述の「物質科学のまなざし」に歪められて、気という概念についても、物質であるだとか、超物質だといった見当はずれの解釈が流行している。伝統的に気という言葉によって指し示されているのは、この自然世界の森羅万象、私達の身体を包んでいるさまざまな事象すべてのことである。変化流動し続ける自然世界の全体を、東アジアの人々は「一つの気」という言葉で呼んだのだ。西欧の人々が、あらゆる事象を永遠不変の形相(イデア)と質料(ヒュレー、マテリア)とから成っていると考え、後者のマテリアからマテリアル(物質)という概念を作ったのとは全く考え方が違う。
逆にいえば物質とか超物質とかいった概念とはまったく異なる概念だからこそ、気という概念はあらゆる事象すべてを指し示し、「心と肉体」に二分割される手前の、まるごとの身体そのものを語ることができる。脳の知に幻惑されている私達が、その幻想から逃れて再び身体の知を感受する細い道を、気という言葉は指し示してくれるのである。」<「気のコスモロジ―」まえがき:石田秀実著>


読んでみるとこれは常識の部類ではないかと思われるでしょう。けれども、自慢家というものはこのような文章を読んでもまた自身で書いても理解できないものなのです。ネットで拾ったその文章を以下に紹介しましょう。ご本人の名誉のために、アドレスや氏名は伏せておきます。

「 〈気〉は一方では物理的な存在で、他方では精神的な存在である。別の種類の〈気〉があるわけではない。同時に物理的かつ精神的なのである。

・・・(中略)・・・

 〈気〉は、私が手をかざせば、十人に九人は感じることができる。だが〈気〉の感覚は、単に触覚的なものではない。奥田鳳作の『長沙腹診考』には「手にて見ると思うべからず。心に応ずるを得て知るべし」とある。〈気〉の感覚は表面的・部分的なものでなくなった時にホンモノになる。「感覚」という言葉より、「感性」という言葉がふさわしい。感性は育てられるものでもある。〈気〉を頭から否定しようとする人には、〈気〉を感じる感性は育たない。」


気を、特別なものと観る人には、〈気〉を感じる感性は育たない。と申しておきましょう。存在するもの全てを愛おしむ心が、シャーマニズムの世界を築きました。いわく、全てのものには神が宿る、いわく、全ての中に仏性はある。これこそが日本民族が持ちつづけてきた柔らかい感性のあり所であり、神といい仏性というそのものこそがいわゆる「気」に他ならないと認識する必要があります。これは西洋におけるいわゆるエーテル学説となるわけです。―いや、これも語りすぎになるでしょう。ごく瑣末な我々自身あるいは物どものすべて、その濃淡のすべてまるごとが、古人によって気と呼ばれているものです。

全てのものの中に神が宿り仏性が宿っているということは、何も宿っていないことと同じである、というのがエーテル学説を否定し批判する学者の言葉なのです。まさにその通りなのですが、実は一つだけ違いがあるのです。それは、私という観察者と、観察されるものとの対立関係を、エーテル学説は否定することとなるということです。つまり、全ての中に私はあり、私を含めた全ての中で学問は進んでいくしかない、科学は進んでいくしかない、そうエーテル学説は語っているわけです。不揃いな砂粒がそこに存在していて、完全な客体として自己があるという、実験室科学(これが西洋における科学技術を発展させて根幹となるものなのですが・・・)を否定し、「私」もその中にあって互いに影響し合う中からしか観察はできない、とエーテル学説は述べるわけです。

この中から実は量子力学が生まれ、相対性理論が生まれ、世界―内―存在を問い、時間と空間とエネルギー(生命)の問題について根源的な問いかけを今もし続けているハイデッガーの哲学が生まれてくるわけです。ちなみに、このハイデッガーの哲学は仏教の空観に通じ、ついには東洋医学の認識論にも通じていくということを押さえておいてください。

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