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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■一気留滞説の本義


四診についての解説はテキスト『一元流鍼灸術の門』の196pから書いてあります。
それとは別に要点をまとめてみたものを板書しました。

ーーーーーーーーーーーーー

〇生命にとって重要か
 1重要であり、急を要する→現代医学へ(交通事故などの大けがの場合も含んでいますので、それを考えると理解しやすいと思います)
 2重要でなく、時間がある→生命力を向上させる→気の偏在を調える
  
   1と2の岐路 皆、気虚の道を歩んでいる

〔伴解説:実際のところ、気虚が深ければ、外的な要因がわずかであっても疲れて倒れてしまいますよね。暑さ寒さや食べ過ぎや疲れなどの肉体的な負担や精神的な負荷によって、元気な人ではびくともしないようなことであっても、気虚が深ければすぐに倒れてしまいます。亡くなる場合もあります。ですから、重要であり急を要するものなのか、重要でなく時間があるものなのかは、その患者さんの生命力によってそれぞれ、大きく異なることとなります。

このことを考えると、生命力の充実度を測るということが、とても大切なことであり、診分けにくいものであるということが、よく理解されるでしょう。〕

〇症状が本人の意識にとって重要かどうかは、関係ない。
  生命力の観点から、考えていく。

〔伴解説:症状名が定められていたとしても、気虚が深くなると、たくさんの症状を同時にかかえていることが多いものです。本人は諦めているような症状などはすでに、問診での訴えはなされません。

言葉を通じて訴えられることのないような身体の状態を土台として、今の生命状況が作られています。今の症状は、そのような生命状況を基礎として出ているわけです。これをいわば、症状は氷山の一角であると表現したりします。

そのため、症状が重要ではない―目立っている症状に目を奪われていると、ほんとうの生命状況の厳しさが見えなくなる、と述べているわけです。

症状は、鍼灸師にとっては四診の材料の一つにすぎないわけです。〕


〇全身の問題か、部分の問題か(どれほど関わるのか)
 ・生命状況の変化に対応して症状は変化するのか
   時系列の大切さ
 ・症状も四診情報のひとつ

             ≪気の偏在を捉え、
              気の偏在を調える≫

〔伴解説:すべての人は気虚があり気滞が同時にあります。気一元の生命の中に同時にそれが存在しているわけです。つまり、まんべんなく広がっている砂漠のようなものが生命なのではなく、気の濃淡をいつもかかえて変化しているのが生命であるということです。

心が動けば動いた先に生命が集まります。体が動けば動いた先に生命が集まります。その生命力はどこかから動かされたものです。その動かされた場所の生命力は以前よりも薄くなりま
す。

すべての人が気虚をベースとしているということは、生命力=気が集まれば気滞が起こり、気滞が起これば、他の部分がおろそかになって、気虚になるという意味です。

全体の生命力の量が少なければ=気虚が深ければ深いほど、この気虚と気滞のまだらな状態は深くなります。このことがさまざまな病のもとになります。病と呼びますけれどもそれはそのそ
れぞれが日常の所作の延長にすぎないわけです。これがいわゆる一気留滞説の本義となります。〕

そのため、四診の目標はいつでも『気の偏在を捉える』ことにあり、処置の目標はいつでも『気の偏在を調える』ことにあるわけです。〕


と、こんな感じで解説をした気がします。理解されたでしょうか。
疑惑や疑問や批判、お待ちしております。
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■ 水火木金土考

水火木金土。この順番が何を意味するのかということは、古典
を少しかじった方であれば自明のことです。すなわち母の胎内
で胎児が養われていく順番を指し示しています。

水というのはすなわち腎であり、火というのはすなわち心であり、
木というのはすなわち肝であり、金というのはすなわち肺であり、
土というのはすなわち脾です。

水火木金土、この順番に五臓が作られていくと古人は考えたの
だと、古典解釈者は考え、そこで思考停止するところです。また
あるいは、頭を腎として次に心臓が明瞭となり、肝肺脾と続くの
かも、というレントゲン的な解釈もなされたりします。

がしかしここでは、少し抽象的概念的に考えていきます。すなわ
ち五臓の生成陰陽論版です。

水火というのは腎と心です。腎は先天の精がここに舎るもので
あり、心は君火で先天の神がここに舎るものです。また、心は
火であり腎は水です。これは存在するものの金型(大枠:天地)
を構成するもっとも大きな単位であると考えられます。人身にお
ける地の始まりが腎であり天の始まりが心であると。このように
考えるならば、この腎と心とは人身の大枠を決定づけるものとし
てともに先天と定めることができるでしょう。

木は、天地を繋ぐものです。大いなる天に枝葉を伸ばし、大い
なる地に根茎を伸ばします。生命の有様そのもの、生きるという
こと存在するということに意味を与えるものそのものこそがこの
木にあります。先天に支えられてこの木が次に出てくるとことは
非常に興味深いことであると思いませんか。

そして次に出てくるものが、肺と脾です。肺は天空の気を取り入
れて吐き出すことによって気を養い、脾は地中の物を取り入れ
て血を養います。ともに生命活動の継続がここにおいて保証さ
れるわけですけれども、肺脾そのものは心腎があって初めてそ
の活動をなし得るわけですから、これを後天と名づけることがで
きるでしょう。

水火木金土。水火という先天と肺脾という後天、これを横に繋ぐ
ものとして木がありまた、水と火という位、肺と脾という位、これ
を縦に繋ぐものとして木がある、そんな立体的な構造としてこの
水火木金土が見えてくるでしょう。

肝木を中心とした生命観というのは、一元流鍼灸術においてキ
ーワードになっていますけれども、ここにまたひとつ、ユニークな
視点を得ることができるわけです。
■ 症状を診るのか人間を診るのか

>そして、それは『目の前にいる人の症状をみる』ことになりがちであるけ
>れど、『東洋医学で人を診る』というときには、『症状』だけを診るので
>はなく、『症状を出しているその人を丸ごとありのままに診る』という
>ことでよろしいのでしょうか?。


この症状を診てそれに解決をつけるということと人間を診てそ
れに寄り添うようにするということには、とても大きな違いがあり
ます。

上で、「一つの括(くく)りをつけることなくして、陰陽も五行も成
立し得ません。」と述べていますが、症状というものは一つの括
りとはならないわけです。症状だけで生きている人をみたことは
ないでしょう! 症状というものは生命力の現われの一つなんで
す。

そのため、どのような症状を呈していたとしてもまず、生命基盤
全体を「一つの括り」として観察する方法が東洋医学では提示さ
れているわけです。それがその「一つの括り」を定めた上で、陰
陽という二つの側面から「一つの括り」を観る観方と、五行とい
う五つの側面から「一つの括り」を観る観方です。

これをまとめて陰陽五行と呼びます。言葉にすると硬い感じがし
ますけれども、実際にこれを使ってみると、非常に柔軟で使い
やすい知恵に満ちています。

生き続けている生命、動き続けている「それ」をそのまま把(と
ら)えるには、陰陽五行ぐらいでばくっと把えていくくらいがちょう
どよいわけです。

この陰陽五行を医学において適用する舞台は、人間の生命で
す。この生命をどのように把えるのか、ということにはまた、さま
ざまな発想があるところです。

一元流では、東洋医学の伝統に従い、人間を生老病死という側
面から把えます。そしてこれをすこし使いやすく一般化してテキ
ストでは提示しています。これがHさんが上で「人の一生を東洋
医学で考えていきたい」と述べられているものとなります。
■ 続:陰陽問答


■ .陰陽のお話:問い

みかんで陰陽を語りましたが、ある方から、自分が使っているテキストには、
『陽』は天、『陰』は地と分けて書いてあるので、わかれているのかと思っ
ていたと話されていました。

もう少し、陰陽トレーニングをしてみたいと思います。


鍼灸の名著、杉山流三部書にも、『天は陽であり、地は『陰』である、・・
中略・・左は陽であり右は陰である』とあります。

こういった表記をみるときには、何を分けてみようとしてるのかという『場
の設定』の観点がとても大事ということなのですね。

みかんのお話で、私は、皮と実を陰陽にわけました。
では、右と左もみかんでも語れます。

みかんで考えて見ましょう。太陽は東から昇るので先に
陽があたるみかんの左側は陽、右側を陰としても考えることができます。
右左の陰陽ですね。みかんの見方で陰陽を語っている部分が違います。

天は陽であり、地は陰であるということを語っているときには、天地を
ひとくくりの場として考えているときの言葉ですね。このコミュのマークの
図も天地を陰陽で表現してあります。

明るいところは陽であり、暗いところは陰であると語っているときには、
光がある場所を設定しているということですね。大きくは昼と夜。
太陽の光が当たるところが陽、影が陰。そんな感じでしょうか。

男は陽であり、女は陰である。これは人間という動物をひとくくりにして
男と女にわけてみたのですね。

気は陽であり、血は陰であるといったときには、うっこの場の設定はなんて
いえばいいのでしょうか?。これは場の設定の仕方でいくらでも使える言葉
ですね。
たとえば、人間という場を設定しても語れます。肝という臓腑でも、肝気と
肝血という風に分けて語れます。これは場の機能と実質という分け方なのか
なと思うのですが、先生、いかがでしょうか?。
このあたりで私の限界がやってきました(^^ゞよろしくお願いします。


■ 日月の陰陽:答え


「それが陰陽関係にあるのかどうか」これが場を設定する上でとても大切な
こととなります。
関係ないものを陰陽で無理やり対比させても意味がありません。けれどもこ
のような言葉が巷にはあふれていて、この概念を混乱させる元になっていま
す。さらには、陰とは何々、陽とは何々などと、陰陽という言葉が対比を示
すものさしであるということすら理解できていない「似非陰陽家」が非常に
多いことには、愕然とします。

ここに集う方には、何が偽者であるのかきちんと見破ることができるように
なってほしいものです。

「一元流鍼灸術の門」の中にも書いていますが、代表的な陰陽の観方にも、
その時代の水準が反映されているものがあります。この代表的なものは、太
陽と月の陰陽です。日と月、それぞれに こざと偏 をつけて、「よう」と
「いん」と読ませることもするほど、これは陰陽の代表的な使用法です。日
本人の生活感としては太陽と月とが陰陽関係にあるということは常識の範疇
に入るものでしょう。ここではその感覚の内面を調べてみることにします。

日月が陰陽関係であるということが常識的なのは、一日に昼と夜とがあり、
昼を主るものが太陽であって夜を主るものが月であるという生活感覚が基礎
となっています。そして昼は明るくて夜は暗いという状態も、陰陽に対する
印象を固定化したものにしています。あぁこれが陰陽ということなのだなと
肌身で感じ取ることができる方が多いでしょう。

では、この日月というものがこれまで述べた陰陽関係でみるとどのように把
えられるのか。ここを今一度考えてみましょう。

日月が陰陽関係であるためには、その場の設定が必要となります。その場と
は一日の自然の運行を大きく一括りとしたものということになります。天地
の陰陽ではなく、天空を含めた自然の変化すなわち時間の経過を見通した上
で初めて、時間を一括りの場として観ているわけです。

これまで述べてきた空間的な括り方とは異なり、時間的な括り方がここでは
出てきているわけですね。

さて、現代人は、昼にも月が昇って沈むことを知っていますし、夜にも太陽
が地球の裏側で輝いていることを知っています。科学的な知識です。さらに
は、太陽系の中の一つの惑星が地球であるということも知識として理解して
います。この理解の上に立つと、月と太陽が陰陽関係にあるということなど
は、チャンチャラおかしい古代の妄想の類になってしまいます。いわば、そ
の時代の常識によって陰陽の把え方も異なってくるものだということですね。

そのため、このように陰陽の概念が再度、現代において整理される必要があっ
たわけです。
■ みかんの陰陽:Hさん


東洋医学で人を診るということは、
目の前にいる『人』を、ありのままにみる。

ありのままにみるときに、陰陽五行など、歴史的な考え方を使ってみる。

ということなのでしょうか。

目の前に『みかん』がひとつあります。

みかんは、皮をむくと中味がでてきます。皮と実にわけられると。

これを陰陽でみると、
 皮を表面だから『陽』と診る。
 実を中味だから『陰』とみる。
 
皮である『陽』と実である『陰』にわけると、みかんを『陰陽』で診ることに
なるのですね。

そして大切なのは、『陰』と『陽』にわけているけど、みかんは一個まるごとで
みかんで、『陰』と『陽』である、皮と実があるからみかんではないこと。

目の前の『みかん』をよく見るために、陰陽という概念を使い、
皮と実をわけてみたと。

では、実のなかには、フサがあります。

そのひとつのフサを取り出すと、フサには皮があり、実がある。
ここでも、フサの皮を『陽』と、フサの実を『陰』とする診方がある。

中味の実にも、小さな袋の皮と中味の実がある。
中味の実も細胞で考えたら、細胞膜という『陽』と細胞質という『陰』がある。

陰陽でみるのは、どこを『ひとつ』として診ているのか。
ここが一番大事なのかなと思いました。

これから学ぶ、東洋医学で人を診るときにつかう、陰陽五行は
このように 『何を診るためにわけているのか』をよく意識しなが
らみていかないと、 とてもごーーーちゃごちゃの概念になり、
なにがなんだかわかんない(^^ゞに なりそうですね。

『東洋医学で人を診る』ということは、
『陰陽五行などの歴史的な物指しを使って、目の前の人を診る』
ということでよろしいのでしょうか?

皆さん、ここまでのお話でご質問などありませんか?

これでよろしければ、このあとは、人の一生を東洋医学で考え
ていきたいと思います。



■ いま少し用心深く陰陽について考えていきます


>『東洋医学で人を診る』ということは、
>『陰陽五行などの歴史的な物指しを使って、目の前の人を診る』
>
>ということでよろしいのでしょうか?

このように言われると、それは少し違うと言わなければなりませ
ん。少しだけなんですけれども。


まず、目の前にある対象(人間)をよく理解しようとしている、と
いう点では、現代の治療家と何も変わるところがありません。

現代においては、血液や尿の臨床検査やレントゲンなどの観察
方法が提示されていますが、当時はそのような機械はありませ
んでした。

似たような解剖学的な知識はありましたけれども繊細さと精密さ
とにおいて、現代医学に及びもつかない位置にありました。


そのような状況の中で何を人間理解の道具としていたのか。


【ここが問題であり大切なところとなります】


このあたり、自分自身が対象をどのようにして理解しようとして
いるのか、振り返ってみるとわかりやすい思います。

たとえば病気の患者さんがやってきて、目立つところである症
状に着目するということは、人間理解の第一歩ではありますけ
れどもそれで人間を理解しているのかというと、そうではありま
せん。

症状を出さしめている土台があるわけです。そこを理解しようと
する時、どのような方法を用いるのかということです。


【ここが問題であり大切なところとなります】


古人はここにおいて、当時の最先端の思想であり宇宙論である
陰陽五行をものさしとして人間にあてはめていきました。

その際に基本となる発想は、大自然と人間とは対応関係にある
ということです。(これを「天人相応」とか「人身一小天地の論」と
呼んでいます)

そして、陰陽五行の理論を対象に応用する際の基本として、場
の設定―どの範囲を見るのかという対象の設定―を求めること
となるわけです。

この一つの括りをつけることなくして、陰陽も五行も成立し得ま
せん。このことをHさんは「陰陽でみるのは、どこを『ひとつ』とし
て診ているのか。ここが一番大事なのかなと思いました。 」と述
べられているわけです。


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さて、Hさんは、みかんで陰陽を語っています。陰陽というのは
ものさしですので、これが陰これが陽という風に記憶することは
間違いです。つまり、陰陽という名前は、ものさしの性質が変わ
ると逆転するということです。

東洋医学では、表面を陽と呼び中心を陰と呼びます。表裏の対
応関係を陰陽という言葉で相対させ、表現しているわけです。

これに対して、求心力と遠心力をもって陰陽を分ける考え方が
あります。求心力が強いものは陽であり、遠心力が強いものは
陰であると。そうすると、表面にあるものは遠心力の表われです
から陰となり、中心にあるものは求心力の表われですから陽と
なります。

このように陰陽という言葉は、その場処に固有に与えられてい
るものではなく、何を見 何を表現しようとしているのかというこ
とによって逆の名前で呼ばれることが多々ありますので注意が
必要です。

いま少しこれを広げて語ると、これは陰だから何々、陽だから
何々と解説する人々にはよくよく注意を払う必要があるというこ
とです。そのような人々は、陰陽の使い方そのものを理解して
はいません。

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