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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■ 鍼灸古典図書の紹介

鍼灸古典図書 https://1gen.jp/kosyo/

ここには、基本的な古典の書籍が揃っています。けれども量も多く、読みにくい書物ばかりなので、いちおうとっかかりが必要かなということで、簡単に記載しておこうと思います。

必須なのは「日本医学史:富士川游」です。歴史ある医学を学ぶわけですからどうしてもその歴史の大枠をつかんでおくべきです。それによっていつの時代にどの程度のことがあったのかといったことが把握できます。この書物は明治時代に書かれたものです。大部ですが比較的読みやすく、日本医学史としては現代に至るまで基本著作ということになります。けれども古本屋さんでしか手に入りません。これを通読しておきましょう。

鍼灸というだけでなく東洋医学の古典というと『素問』『霊枢』ということになりますが、これを項目別にまとめなおしたものが『類経:張景岳』です。ここに掲載してあるものは江戸時代の日本で刊行された版ですので、漢文だけではなく返り点送りがながついて読みやすくなっています。『類経』は『素問』『霊枢』の解釈もそこに掲載されており、その解釈の良さには定評があります。また最後の方には『類経図翼』と『類経附翼』があり、医易を考えていくための基本的な文章となります。

医学総合の所の『景岳全書』は、『類経』と同じ張景岳の著書です。人間観や治療概念などのバランスが非常によいのは、景岳が医易を基本としているためでしょう。また証に対する治療法が詳細に掲載されており、景岳の時代1600年ころまでの治療法の総まとめとしても勉強になるものです。この『景岳全書』は、鍼灸古典図書の頁では『景岳全書:疾病論:張景岳』『景岳全書:本草篇:張景岳』として上下に分けて掲載しています。現代中医学でも一目置かれている貴重な書物です。大部なので、辞書的に使用されるとよいと思います。この目次、たいへん苦労して作成しています。利用して下さい(*^^)v

後は興味の方向に従って目次をにらみながら読んでいけばよろしいかと思います。

字句に拘わり方向性を見失ったときには、再度『一元流鍼灸術の門』の総論に戻ってきて下さい。読みの深さが変化していることでしょう。
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■ 三焦


《難経》において、もっとも大切なことは、臍下丹田を中心とする人間観が提示され、腎の陽気すなわち命門の火が上中下の全身に満ちている状態が三焦であるとされているところです。


すなわち三焦という相火は熱気であり下から上に上っていき、全身の温かさの大本となります。心主は光り輝く明るさであり上に輝き、全身を明るく照らし出す大本となるわけです。


きわめて単純で基本的なことなのですが、古来さまざまな論争が行われてきたということは、三焦論の資料をご覧になっていただければ理解できるでしょう。

また、現代の鍼灸師の間にも、三焦は陽気だから陽経を流れる。三焦が治療の極意であると言われているから、陽経治療ですべての病気が治るとのたまわる論がありますが、それがいかにナンセンスなものか、自分の頭で少しでも考えることができる方ならば理解することができると思います。

そのグループの論文には、陽経は暖かく陰経は冷たいなどといった噴飯ものの論を講師が堂々と書いており、経絡治療というもののレベルの低さを見せつけてくれるものとなっています。

武士の情けでその会がどこであるかは言いません。もしこのブログを読んでいるようであれば、密かに方針を改め、三焦論を一から勉強し治し、あたりまえの論を提供できるようにしていただきたくお願い申し上げます。
■ 陰虚陽亢界隈


> 陰虚陽亢の陰陽が、五臓の心と腎のことだとは驚きでした。
> 僕はてっきり全身の形態としての陰と、機能としての陽のこと
> だと勘違いしておりました。
>
> これがいわゆる場の設定が間違っているということなんでしょうか(^_^;)
> 陰陽という言葉は特に色々な使われ方がされているようなので
> この場の設定に気をつけたいと思います。

これは場の設定の問題ではなく、陰虚陽亢という言葉の解釈の
問題だと思います。陰虚陽亢という言葉は、陰が虚することによ
って陽が亢ぶるという意味です。陰が虚するという言葉の中身
には気の方向性はなく、その場で陰が虚しているという意味が
含まれています。陽が亢ぶるという言葉の中身には上衝し膨張
するという意味が含まれています。

このような語感に基づいて、陰虚とは何を意味しているのか、そ
れに対して相対的に亢ぶっていく陽とは何かということを、その
症候を踏まえながら考えていくわけです。陰虚陽亢の陰とは腎
ではないか陽亢の陽とは心ではないかということは、上記の思
考の結果の一部の表現にすぎないわけで、そこに至るまでの思
考過程が大切です。

また、自分が考えたことが正しいのか間違っているのかというこ
とは、自分の考えをいったん離れて点検し直すことで行います。
たとえば、陰虚陽亢の陰が全身の形態であり陽が全身の機能
であると定義してみるとします。すると、全身の形態が虚すこと
によって全身の機能が亢ぶるという病態であるということになり
ます。これでは陰虚陽亢が指し示している症候に合いません。
また、機能がたとえばバランスよく亢ぶることのどこかに問題が
あるでしょうか?機能が亢ぶるということの内容は、いわば新陳
代謝の速度が速くなるということであり、さまざまな活発な運動
を行うのはそのためであったりします。機能が亢ぶることによっ
て虚しているとされる形態もおそらくは回復するでしょう。という
ような思考過程を経ることによって「陰虚陽亢の陰が全身の形
態であり陽が全身の機能である」という説は否定されることとな
ります。

片手では自由自在な発想が必要なわけですけれども、その正
誤判定のためには、その自由自在な発想をして出てきた結論
から今一度離れ、新たに論理的に考えを構築していく必要があ
ります。


> そして陰虚陽亢の陰陽が、五臓の心と腎のことであるならば
> 勉強会の場で僕が質問させていただいた
> 「陰虚陽亢における陽亢の正体は、
>  陰と共に減ってしまい少なくなった気の滞りによる一種の気虚気滞では?」
> との仮説は当てはまりませんね。

これはさまざまな意味で当てはまりません。もうちょっと複雑精
緻に考えを進めていきます。このあたりは実際に病因病理を考
えていく中で気が付かれていくのではないかと思います。


> 陰陽両虚が腎虚が中心だとの話題もでましたが
> これは陰虚陽亢の陰虚(腎虚)がより進行して陽である心にも
> 波及した末になるものなのかな、などと帰りの新幹線の中で
> 考えておりました。

陰虚陽亢の果てには陰陽離乖によって起こる狂気とか死がみ
えてきます。陰陽の交流がうまく行われずに陰虚と陽亢のアン
バランスが劇しくなっていくという考えかたです。陰陽両虚の人
は陰陽のアンバランスが劇しいわけではなく、全体的に弱いわ
けですから、病態としてかなり異なります。

このあたりのことも個別具体的に病因病理で考えていった方が
理解しやすいところでしょう。
■Q&A気鬱を邪気としてはみないことについて

一元流鍼灸術では、患者さんの身体を理解するために四診を用い、その表現として言葉が豊富で使用しやすいため、中医学の用語を用いることが多くあります。そのため、中医学の研究家の方から、さまざまなご批判があるかと思われます。


> 説明の中で使われている‘気鬱’についてですが、
> 通常正気であるものが生体に対して病理産物になったり、
> 悪影響を及ぼす場合には名称が変わります。
> ですので、‘気鬱’という言葉を使った時点で即病邪を示すと
> 思われます。これは中医学に限らず、一般論だと思います。


気鬱というのが、どのように使われているのかというご説明を申し上げます。

気鬱というのは、気の鬱滞ということを意味しているに過ぎず、これは、気虚と相対する概念として使用しています。一つの生命体の中に気虚の部分と気鬱の部分が存在し、そのまだらの気の状態について濃い部分を気鬱、薄い部分を気虚と表現します。そのため、一元流鍼灸術では、それがそのまま病邪を意味するものとはしません。

この発想の原点は、張景岳の《景岳全書》〈命門余義〉の中の『飲食物を消化することができれば、それは必ず運行されるが、もし消化することができなければ、必ず留滞していく。消化されて運行されれば気血に化していくが、消化されずに留滞されるなら積となり痰となっていくのである。』という言葉あたりが参考になっています。

痰といえば内生の邪ですけれども、それも体内において生気と邪気とに融通無碍に変化すると景岳は考えていたのですね。

> 例として
> 自然界が寒いときにその事が体の陰気を補う作用に働いた時は
> ‘寒邪’が陰気を補ったとは言わないでしょう?

この例は、適切ではありません。邪という言葉を用いるときと、上に説明したような気鬱という言葉を用いるときを同一視することはできませんからね。

> 次に‘陽明腑実’ですが、この言葉イコール三承気湯の適応を意味すると
> 思います。

これは便秘の概念の一部を使用して、五臓の弁別の中で用いたものです。五臓の弁別の中では、特徴的な徴候を、あまり前提を用いずに書いていくという作業を行います。それを通して、ある症状をさまざまな角度から自在に眺められるようにし、それらの中から、全体観に基づいて病因病理を考え、それを整理統合していこうとする方法論を用います。ですから、何でもかんでも傷寒論を用いているという言葉はあたりません。

> 虚寒や寒邪内攻を主張されていて、上記の病理状態が共存しないこともないですが、
> もしその事を主張されるのであればそうとう絞り込んだ弁別が必要だと思います。

このために病因病理を考えているわけですね。
■邪気と生気とは陰陽関係にはない

生命を気一元のものとして把握するということを一元流では基本としていますので、邪気はそれが気一元の生命にどのような影響を与えているのかという側面から考えていきます。

気一元の場を設定して陰陽をものさしとして使用することはできますけれども、邪気と生気との関係を考えていくには場の設定が改めて考察されなおす必要があります。

邪気と生気とは、一つの場を構成しているものではないので、陰陽関係ではありません。だからこそ病位を定めてそれを攻撃し邪気を排泄させようとするわけです。


■Q&A陰陽論

今回の勉強会は、先日告知したとおり陰陽論の読み合わせの続きをやりました。読み合わせだったのですが、冒頭で私のチャチャが入り、壮大な質疑応答となりました。そのちゃちゃとはテキストで引用されている《素問・陰陽応象大論》の文章なんですね。

『黄帝は述べられました。陰陽は天地の道、万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始、神明の府です。病を治療する際には必ずその大本を求めなければなりません。陽が積み重なって天となり、陰が積み重なって地となります。陰は静かで陽は躁がしいものです。陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。陽は気に化し、陰は形を成します。』

よく、陰陽は相剋し合って、陰が長じれば陽が滅び、陽が盛んとなれば陰が縮むという言い方がされます。陰陽マークに用いられる太極図なんかはまさにこの支配領域が相互に浸食しあうことを表現しているもので、万物は流転し変化し続けるということが陰陽論の基本なのだよと言っているように思えます。ところがここでは「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」と述べられています。つまり陽の充実は陰の充実につながり、陰の充実は陽の充実につながると述べられているわけです。これはどういうことなのでしょうか。

治療を思い浮かべれば理解できますが、気を補うことでその場の血を増やそうとします。気が集まるところには血も集まるわけです。鍼を刺したり灸をするとその部位が発赤します。これは気を補うことによって血が集まるという状況を目に見える形で示しているものです。鍼灸における治療行為はこの原理に則って行われているものです。

と、このような説明を加えたところ、ふと思いついたY先生から陰虚陽亢とはどういうことなのでしょう。という質問が起こりました。上手に地雷を踏んでくれているわけです。疑問の持ち方が素直ですよね。「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」というのであれば、陰が虚すれば陽も弱るはずではありませんか。それなのに陽亢するというのはどうしてなのでしょうか、ということが質問者の内容です。

そこでかなりの時間を費やして、陰虚陽亢という言葉の中身について検討が行われました。じっくりと迷うことを大切にしながらやっていったわけですが、そこは省略します。で結論だけを述べますと、この陰虚陽亢という言葉の中身、すなわちこの陰虚というのは全身の陰の中心である腎の場合が多いわけです。けれどもそう言ってしまうと少し狭くなってしまうので、陰虚と表現しています。陽亢というのは相対的に陽気が強くなっている状態で、この陽気の中心は心ですけれどもやはりそう言いきってしまうと狭くなるので陽亢と言っているわけです。つまり陰が虚することによって相対的に陽が突っ張って膨張した状態、これを陰虚陽亢と表現しているわけですね。


このあたりの説明についてMさんがいい質問を投げてくれました。それは、先ほどの「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」という《素問・陰陽応象大論》の説明と、この陰虚陽亢の説明とは矛盾するのではないですか?ということです。これにOさんがフェーズが違うためということで答えてくれました。すなわち、陰虚陽亢というのは気一元の器の中の、病的な状態について表現しているものであって、《素問・陰陽応象大論》の「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」というのは気一元の器そのものの充実の仕方と損傷の仕方、育ち方と亡び方について述べているものであるということです。いわば《素問・陰陽応象大論》はしっかりと人間における陰陽の生長老死を視野に入れて書かれているということなのです。陰虚陽亢という言葉はその流れの中にある一時的な病的な状態―バランスの崩れについて述べられているものです。

これについてSさんがまたいい質問をしてくれました。「陰陽論の総論部分には光と影の陰陽とか書かれていて「陽が生まれれば陰が長じ、陽が滅びれば陰も蔵(かく)れます。」という言葉とは矛盾していると思うのですが、これは陰陽という同じ文字を使っていてもそこで表現されている内容が異なるということなのですか?」というものでした。まさにその通りで、陰陽という言葉を恣意的に使われていることに対して反旗を翻したのが私なのです。そして陰陽という言葉の使用法を整理し直し使えるように整備したものが《一元流鍼灸術の門》なのです。陰陽という言葉を使用する前に、その物差しをどのような場で用いているのかを明確に意識しなければならない、ということが鉄則です。世の陰陽論が言葉遊びに陥っている理由が、この鉄則を踏まえていないことによります。このあたりのことを意識して《一元流鍼灸術の門》を読み直されると、大きな発見を得ることができるでしょう。

ということで読み合わせはほとんど進まず、そのまま経穴診の練習に入りました。はてさて、皆さんには勉強になったでしょうか。一元流鍼灸術というものがまったく新しい、けれども伝統に則った人間理解を基本にしているということが理解していただけると嬉しいのですが・・・

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