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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■ 気づきの種


ここで学ぶことは一つの種です。
この種は、気づきによって成長していきます。

この種を成長させるコツは、
固定観念にとらわれずに観、
固定観念にとらわれずに聴くということです。

固定観念にとらわれないということは難しいことです。
固定観念にとらわれないと思うことそのものが固定観念になりえますから。

そのため、固定観念にとらわれないということを別の言葉で、
気づく、と呼びます。

何かに気づくとき、心はジャンプします。
その心のジャンプが、
歓喜とともに、
光明を、
その心に射し込ませます。
そして、それは、その人の世界が一段階広がることにつながります。

このような気づきを重ね重ねていくことによって、
いつの間にか人を診れるようになります。

気づくということができるということは、
奇跡です。
そして、この奇跡は、
自身が無明の中に存在しているからこそ、
起こりえるものであるということを、
よく理解していただきたいと思います。
無明の中にいるありがたさ、
これが「無知の知」と呼ばれるものの正体です。

無知であることを恥ずることはありません。
それを早く自覚することによって、
早く気づきの種が育ちます。

無知であることを恥ずることはありません。
無知であることを知り続けることで、
人は始めて、
いつまでも気づきの歓喜の光の中に
立つことができるのですから。

皆さんは学ぼうと決意されてここに集まりました。
学ぼうと決意されているということは、
自分が無知であるということを知ることができている、
光明への扉を叩いているということを意味しています。

その初心を忘れずに、
その謙虚さを忘れずに、
患者さんの身体に対し、
古典を読み込み、
臓腑経絡学を点検し
自分を磨き上げていただきたいと思います。


                  伴 尚志
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■ 古典を読み身体を読む心

鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を
見つめることを通じて、その生命医学・実証医学としての体系を
作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてま
た観る。事実とは何かということを観る、とともにその底流に流
れる生命原理について思いを尽す。その無窮の作業の果てに、
現在古典として伝えられている『黄帝内経』などの書物が出来
上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の
実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前
に存在する人間そのものに向かっていくわけです。そして、どう
すればよりよくそれを理解できるだろうか、どうすればその生命
状況をよりよい状態へともっていくことができるだろうかと探求し
ているわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をし
ています。時代によって地域によって違いはあります。けれども
その時代その地域において、真剣に人間を見続けたその積み
重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として言葉で残
されているわけです。これはまさにありがたいことであると思い
ます。

この深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえ
るでしょう。けれどもその書物の山に埋もれることなくそれを適
宜利用していけるような人材を作るということが、学校教育に求
められています。外野としての私は、その支援の一つとして、中
心概念をここに明確にしています。それが気一元として人間を
見るということと、その古代哲学における展開方法としての陰陽
と五行の把握方法をお伝えすることであるわけです。


古典という地図には読み方があります。そもそもの原典であり
古典である患者さんの身体は、時代や地域によって異なります。
現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要です。現代の
人間観、宇宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人
間を観ることに徹底することによってはじめて、古典を綴った古
人とつながることができます。この心意気は必ずや、現代にお
ける未来への古典が綴られることにつながっていくでしょう。こ
れこそが澤田健先生の言われた、「死物である書物を、活物と
する」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、目の前の患者さん
の身体に向かう際の白紙の心とは同じ心の状態です。無心に
謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本となりま
す。


このあたりのことが、『鍼道秘訣集』に書かれている心がけの大
事ということになります。
■初原の門

東洋医学を勉強したり治療において症状の解決技術に着目したりしていると見失われてくるものが全体観、気一元の観点から観るという視座です。昔、学園闘争華やかなりし時代に、東大の教授が専門のことしか知らないことから「専門ばか」と揶揄されていましたが、彼らが見失っていたものがそれです。学問の細かい世界においては、顕微鏡を覗くような、重箱の隅をつつくようなものを積み重ねて検証していくということは必要です。しかし臨床においては、全体観を見失うことは許されることではありません。この端的な例が、手術には成功したけれども患者さんは亡くなってしまったという言いわけです。よりよく生きるということを目指すべき医療において、生命力をどのようにつけていくのかという観点がおろそかになっているため、このような事態を引き起こし、このような言いわけが通用すると考えてしまうわけです。


見ることを始める位置。初原の位置は、ぼやっとはしているけれども、生命そのものの交歓を眺めうる視座(視点の位置)です(いわゆる子供の視座)。そこから生命って何だろう?人はどうやって生きているのだろう?この症状を取るにはどうすればいいだろう?東洋医学って何だろう?という疑問と好奇心が始まります。ところが徐々に、生命の交歓から離れ、書かれているものを読み、全身の状態を離れて局所の(にあると思っている)症状にとらわれていくことになってしまうわけです。とらわれているという点で、これは罠であると言うこともできるでしょう。


もともと生命そのものを喜び慈しみあう美しさに充ちた世界を、さらによく理解したいという興味、好奇心から始まった言葉の世界が、知るという喜びからわれわれの心を引き離してしまう。この罠は、「知恵の木の実」をたべてエデンの園から追放されたアダムとイブが引っかかった、蛇の罠のようです。


「一元流鍼灸術の門」は、その罠に陥った中医学や東洋医学を学ぶ方々へ、ふたたび立ち戻る位置を示したものです。気一元の観点に立脚してきちんと観ていくということは、まさに生命そのものを問い続ける作業でです。このゼロの位置とは何か。初原の位置とは何か。何を自分は観ようとしていたのか。それを思い起こし再び臨床と勉強に臨んでいく「初心の門」こそが「一元流鍼灸術の門」であるわけです。
11月の勉強会、読み合わせは、「経穴をみつけるための経穴
学」322pです。

ここが実は東洋医学すべての基礎となっているわけで、『黄帝
内経』や『難経』も、ここの探究から出ていると考えています。

いわば、生命が生命に触れるという、もっとも深刻な=大切な
位置です。ここを探究していくことを通じてのみ、古典を乗り越
え、未来に残る鍼灸医学を作り上げていくことができます。

これが、一元流鍼灸術の目標の一つです。


この位置の探究は、

1、実際に存在しているものと、その表現としての言葉との関係、

2、触れるという行為は、相手に触れているのか、それとも自身
の脳にある体験を追体験して整理しなおしているにすぎないの
か。

3、自分が過去に体験したものしか触れることができない。過去
に体験したことがらで整理されている概念のなかに、現在の体
験も押しこめられるころが多い。

〔伴解説:過去に体験したことがらを通じて、個々人それぞれの
今の概念体系ができあがっています。一度できあがった概念体
系を通じて、多くの人はその後の体験を整理していきます。そ
のため、大人になると世界が理解できたような気がし、マンネリ
のつまらない人生を送ることになります。なぜかというと、すべ
てのことがらが追体験にすぎなくなっているためです。しかし事
実としては今ここで起こる体験は、まさに一度きり今限りのこと
です。そのことについて述べています。〕

その意識の位置から出て、今、実際にそこにあるものに触れる
ことを感じることができるようになるためにはどうすればいいの
か。

ここには、乗り越えるべき高いハードルがある。このことを、理
解できているだろうか。


4、そのハードルを乗り越えて、新たに言葉をもつことができた
としても、それを実際に表現する時、そこには必ず自己の表現
体系(言語体系)が入らざるをえない。このようにして発せられ
た言葉が、原初の古典となって遺されているということを、深刻
に理解しなければならない。

5、人は、ほんとうに他者と共通の言葉を持ちえるのだろうか。

このような、深刻な課題と実はなります。

どの経穴がどのような症状に効果があるというような単純な問
題ではないということに、気がつくことができる人がどれほどい
るでしょうか。

このあたりのことは、言語学(栗本慎一郎『意味と生命』)や実存
主義(ハイデッガーやメルロポンティ)が、展開しています。

さらに言うならば、『般若心経』に描かれている、意識の位置、
禅の修行者が到達している、不立文字―無言の位置あるいは
論理としての「空観」あたりがすでに、この間の事情を表現して
います。ここは西田幾多郎が東西の哲学を橋渡ししています。
(西田幾多郎は難しいので、その分子生物学者による解説書を
紹介しておきます。『福岡伸一、西田哲学を読む』―生命をめぐ
る思索の旅)

現代の東洋医学者、石田秀実の絶筆である『気のコスモロジ
ー』―内部観測する身体も読みやすく総合的な理解を深めてく
れることでしょう。

とさまざまなことを述べましたが、ひとまず今は、「新たな気持ち
で経穴を診る」ということに心を砕いていきましょう。

ということで実技は、前回に続いて背候診を行います。診方、見
え方はどのようには変化しているでしょうか。
■「患者さんの身体から学ぶ」方法論の確立

患者さんの身体から学ぶというとき、その方法論として現代医学では、臨床検査やレントゲンやCTなどを用います。筋肉骨格系を重視するカイロなどでは、その身体のゆがみや体運動の構造を観察する方法を用います。東洋医学では望聞問切という四診を基にします。一元流はこの四診を基に、生育歴(時間)と体表観察(空間)とを統合して用います。

これらすべては、人間をいかに理解していくのか。どうすればその患者さんの疾病に肉薄し、その患者さんの疾病を解決する方法を探るために行われるものです。東洋医学ではこれを疾病理解や治療技術という経験則を積み重ねる中から、人間理解へと昇華し、その方法を弁証論治として提示できるようになりました。

一元流鍼灸術では、この生きて活動している気一元の身体がそこに存在しているということを基本に据えた弁証論治の方法を、技術としてまとめて提示しています。

東洋医学はその発生の段階からこの全体観を保持していました。そして、体表観察を通じて臓腑の虚実を中心とした人間観を構成していきました。臓腑経絡学に基づいたこの人間観こそが東洋医学の特徴であり、他の治療技術の追随を許さないところとなっています。

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