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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

以下の論文をアップしました。
今年の更新はこれが最後となります。
一年間おつきあいをくださりまして、ありがとうございました。
来年も、よろしくお願いします。

後藤流「一気留滞説」と一元流をつなぐ身体観:木村辰典著
https://1gen.jp/1GEN/RONBUN/22kimura.HTM


【目的】
後藤流に関する書籍を読んでいると、一元流とどこか繋がりを感 じるようになりました。 それも治療の枝葉ではなく、幹となる部分でそう感じるのです。 後藤流の「一気留滞説」を考察することで、その理由に少しでも迫 ることができればと思います。

【目次】
 はじめに
1.後藤艮山(1651~1725年)について
2―1.一気留滞説:「一気」とは
2ー2.一気留滞説:「元気」とは
2-3.一気留滞説:気一元の観点
3ー1.艮山の治療法:順気
3-2.艮山の治療法:灸法
4.艮山の養生
5.まとめ
参考文献
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■患者さんの身体を読む


病因病理を考えるということは、そこに存在している患者さんの身体を
読むということです。古代において、人は小宇宙として捉えられ、天文
地理を眺め感じ読み取ることを通じて、人身の不可思議を相似的に把握
しようとしました。天文地理という大宇宙と人身という小宇宙の双方と
もに同じ法則があるに違いないと考えることは、生かされている奇跡を
神の恵みに違いないと感じ取ることのできる人間にとっては当然のこと
でした。

身体の秘密を知るということはまさに宇宙の神秘を知ることに他ならな
かったわけです。


一元流の弁証論治は、この古代人の把握方法を再構成したものです。


1、四診をして情報を集めます。

2、四診の情報を、五臓の弁別として五に分けてみて、その全体像を把
握しやすくします。

3、弁別された情報を、病因病理の観点からひとつの生命の流れに寄り
添うような形で統合し、その人の生命の有様を明らかにしていきます。

4、見えてきたものの中心を記述するのが弁証項目で、治療法を記述す
るのが論治項目としています。治療法は個別具体的に繊細になりますの
で、初期段階でその流れを治療指針として記載しておきます。患者さん
にできることも治療法の一種で養生法でもあります。これを生活提言と
して記載します。

このようにして見、このようにしてその修復方法―治療方法の概略を明
らかにしていくわけです。

実際の治療経過を通じて本当に患者さんを理解できているのかどうか。
それを再検討するための材料が、このようにしてできあがるわけです。
■知を探究する覚悟


知を探究する際に覚悟がいるということは一体何を意味しているのだろうと、私自身にいま問うています。

知を探究するということは、与えられた情報そのもののなかから知恵をそのまま引き出す行為となります。これはフィールドワークをする研究者と同じような姿勢です。存在の声に耳を澄ましそれを聞くようにする、というテキストの言葉は、このことを意味しています。真実(知)を探求するということはいつの時にも自分の考えを棚上げにして存在の声を聴くことを優先する、その覚悟が必要となります。

これは自分を汚している「知識」を少しづつはぎ取っていく行為であるとも言えます。自分を汚している「知識」と表現していますけれども実は、知識や常識というものは、現在の自分自身を規定し、ある意味で護ってくれているものです。知を探究し続けるためにはそのような保護着を手放す勇気を持つ必要があります。覚悟と私が述べたものはこの勇気のことをも意味しています。

探究が続いていくにしたがって恐怖や疲労からこれまでの常識にすがるということはよくあることです。そのような逃げを打たず探究を続けていくことを選択すること選択し続けることもまた覚悟ということになります。

ことに生死の研究というのは深い宗教的理解を必要とするものです。途中で探究を止めると、傲岸不遜な宗教家になりかねません。どこまでも謙虚にあり続けなければ、知の底―すべてに通じる知の道―を見つめ続けることはできないものです。

知の探究というのは、自分が知らないことを探究しているわけですけれどもそれは実は、本当の自分自身を捜し出すー洗い出すーということでもあります。そういう意味で知識の汚れを払い自分自身の本来の姿に立ち返るというふうに表現したりもします。そう。これが汝自身を知れという言葉の真の中身です。

無理に納得することは汚れをもう一つ分厚く付けてしまうことになります。それをせず、風に揺らぐ葦のごとく知に向けての希求を諦めずにい続けること。これが覚悟であり大切なことであると私は思います。
■ 無知であることを知る


無知の知という言葉は、自分自身のおろかさ無知に対する徹底した自覚を指しています。自分自身が無知無能暗愚であることをしっかり自覚するところに初めて、学びが入る精神的なゆとりが生じます。

東洋医学を行じていく中で、草創の古人とわれわれ現代人とのどこが一番異なるのだろうかと思ってみると、これはもう、無知に対する徹底した自覚が我々には足りないということに尽きると思います。無知を自覚すること。そこに知への渇仰が産まれます。この知への飢えと渇きが、多くの気づきへの道を切り開いてくれます。

私どもは、学問・書籍・試験などを通じて、あまりにも多くのことを記憶してしまいました。この、言葉が充満している世界は、それなりに頼りになるものではあるわけですけれども、実は、実際の世界と肌触れ合うスリル・新鮮さを失わせてもいます。いわば、冒険を恐れるあまり世界に開く心を失った現代人が、ここに魑魅魍魎のように巣食っているといった具合になっているわけです。

この時にあって、すべての虚飾を剥ぎ取りリアリティの中に、無知の闇を恐れず、六感を研ぎ澄まして、獣のように棲むという覚悟が、われわれには必要です。

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