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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■学びの遅速


学ぶ速度には、遅速があります。遅い人は風景が良く見えます。速い人
は次の世界に早くたどり着きます。

勉強会としては、遅い人と速い人と両方いると、その幅が広がります。
しっかりとゆっくりと歩いてくれている人は、今、その場所で、誰も気
がつかなかった発見をすることがあります。先導者の言うことをはいは
いと聞いて素直に歩いていく人よりも、その言葉が身についている場合
があります。

勉強会は、誰もその足を引っ張ることもできませんし、頭をぬきんでる
こともできません。参加している人がそのまま勉強会の外的な広がりで
あり内的な深まりだからです。その総体がその勉強会の器となるわけで
す。

そのような勉強会の中で学んでいく上でもっとも大切なことは、自分自
身の速度より早く歩かないこと。一つ一つ納得できるまで、諦めずに考
え続けることです。


                   伴 尚志
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■拘わってはいけない微細なものとは何か


拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て
判断するということです。

全体観とは何かというと、一の把握ということです。

存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには
小さいなりの「ありよう」特徴を持っています。

テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を
一括りのものとして把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定め
ることができないと、妄想を構築することとなります。

妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑には
ならないわけですけれども、人を指導したり、治療をしたりする段にな
ると非常な迷惑を与えることとなります。

妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人
がほとんどでしょう。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみる
と、それを持たない人はほとんどいません。こだわりがある時にはそこ
に充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。

ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべき
でないところにはこだわらないという鑑別が難しいというところにあり
ます。そのため、熱心に生きている人ほど、目の前にぶら下がっている
言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。これが肯定的なこ
とであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなこ
とにも拘わる人までいるわけです。

「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。

実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。
東洋の伝統においてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置
きます。自己肯定する時の自己とは何かというと、今存在している自分
自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情を基本とします。今
存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向かっ
て成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているも
のが四書の中の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」
というものがこれで、言葉を換えると「自分自身と同じように隣人を愛
する」ということであり「自分を大切にしながら公に奉仕する」という
精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レベル
に従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自
身に当てはめて語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自
分の位置に感謝を捧げそれを喜ぶ」ということとなります。

言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは
「感謝する」ということであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこ
そが、拘りの中心でなければならないということです。それはまた、
「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともなるわけです。

そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけな
い微細なものです。ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、
遠くの微細な目に見えないもは大切ではなく、今 目に見えているそれ
そのものがまずは大切なことなのです。このことを一元流鍼灸術では、
「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。

                  伴 尚志
■見えること判ることを積み重ねる


勉強会に参加していて、どーも何をやっているのかわからない。
他の人々は見えているらしいんだけれども、自分にはどうしてもよくわから
ない。わからないからますます熱心にそこに注目するんだけれどもやっぱり
わからないという悪循環をおこしている人がいます。

これ、もったいないですね。

見えないこと判らないことは、積み重ねられません。修練を積んでいる人に
できることが、初心者にすぐできるわけもなく、修練を積んでいる人に見え
ることが、初心者にすぐ見えるわけはないんですね。

また、その人の体質や人生経験によって見やすいこと見えにくいことがあっ
たりもします。

ですから、判ることを確認していく、見えるものをどう解釈していくのか自
分の頭で考えていく。そのように心を定めることが大切です。

そのようにすると、見える範囲が少しづつ増え、見え方が少しづつ深くなり
ます。

「人間がそこに生きている」という基本的なことが見えない人はいません。
その人間を少しだけ詳しく見ていく。腹があり背があり、生きてきた歴史が
そこに刻まれている。そのあたりから少しづつより詳細に、「確実に」見え
る範囲だけを集めて、その人をより深く理解していくわけです。

そこに借り物ではない人間理解の端緒があります。確実なところを集めてそ
こから理解を深めていく。そこから借り物ではない臨床への道が開けていき
ます。

これがより誠実な治療家になっていくための、第一歩であり、いつでももっ
とも大切な基本的な歩み方となります。この誠実さを踏み外さないように、
日々の臨床のルーティーンの中に埋没しないようにしましょう。


                  伴 尚志
■患者さんの身体を読む


病因病理を考えるということは、そこに存在している患者さんの身体を読む
ということです。古代において、人は小宇宙として捉えられ、天文地理を眺
め感じ読み取ることを通じて、人身の不可思議を相似的に把握しようとしま
した。天文地理という大宇宙と人身という小宇宙の双方ともに同じ法則があ
るに違いないと考えることは、生かされている奇跡を神の恵みに違いないと
感じ取ることのできる人間にとっては当然のことでした。

身体の秘密を知るということはまさに宇宙の神秘を知ることに他ならなかっ
たわけです。


一元流の弁証論治は、この古代人の把握方法を再構成したものです。


1、四診をして情報を集めます。

2、四診の情報を、五臓の弁別として五に分けてみて、その全体像を把握し
やすくします。

3、弁別された情報を、病因病理の観点からひとつの生命の流れに寄り添う
ような形で統合し、その人の生命の有様を明らかにしていきます。

4、見えてきたものの中心を記述するのが弁証項目で、治療法を記述するの
が論治項目としています。治療法は個別具体的に繊細になりますので、初期
段階でその流れを治療指針として記載しておきます。患者さんにできること
も治療法の一種で養生法でもあります。これを生活提言として記載します。

このようにして見、このようにしてその修復方法―治療方法の概略を明らか
にしていくわけです。

実際の治療経過を通じて本当に患者さんを理解できているのかどうか。それ
を再検討するための材料が、このようにしてできあがるわけです。

             伴 尚志

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