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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■言語を超えた理解を!

私どもは何を学ぼうとしているのでしょうか。何を形作ろうとしているのでしょ
うか。

中医学を学ぼうとしているわけではありません、経絡治療を学ぼうとしているわ
けではありません、漢方医学を学ぼうとしているわけではありません、東洋医学
を学ぼうとしているわけではありません。

そうではなく、目の前にいる人間をよりよく見てよりよい治療を施すにはどうす
ればいいか、ということを学びたいわけです。

ということは、まず第一に、目の前にいる人間をどのように理解すればいいのか
悩む必要があります。それがなければまず初発の心が起こりません。この道を続
けていくことができません。もし人間に興味がないのであれば始めからこの道に
入らないことです。

次に、どのようにすれば理解できるのだろうかという悩みに入ります。現代では
医学というと西洋医学が主流ですので、それを学ぶのも一つの手です。解剖を学
び生理を学びます。その精緻な分析的な手法に感動します。

けれどもそれで人間を捉えることができているのだろうか、本当にそれでいいの
だろうかと悩みます。不自然な感じがするし肉体は救われるのかもしれないけれ
ども心は救えないかも。病気は診ているかもしれないけれども人間を観てはいな
いのではないだろうか。そもそも人間を観るというのはどういうことだろう。

そこで東洋医学の一元的な人間観に出会うわけです。人と宇宙とを対応させて考
えており、人間は小さな宇宙であるという。陰陽という物差し五行という物差し
を使って、その宇宙をさまざまな角度から観ようとしているらしい。これって美
しいかもと。

そこで勉強を始めます。すると、思いのほか大量の知識の集積の前に戸惑いま
す。多くの言葉を記憶しなければそこに書いてあることを理解することすらでき
ません。まじめな人はそこで苦労していく決意を固め、いわゆる東洋医学用語を
定義しそれを使って表現する方法を学びます。そして古人の言葉を理解しその解
説までつけられるようになります。そのような作業を続けて数十年が過ぎたころ
運が良ければ再度深い迷いにはまり込むことにななります。

言葉は取りあえずわかったような気がするけれども、目の前の人間理解は進んで
いるのだろうか。評価し分析することはできるようになっている気がするのだけ
れども、本当に理解しているのだろうか。と。


存在そのものへ、存在そのものの理解を、と思う時、実は言葉は邪魔なだけだっ
たりします。言葉を通じて古人と対話し、言葉を通じて他者と対話することはで
きるわけですけれども、言葉以前に存在している人間そのものは言葉を格拒して
〔注:きっぱりと拒絶して〕そこに存在しているのです。それをどう損壊しない
ようにありのままに把握していくのか。それが陰陽五行論の基本的な発想であっ
たはずです。それなのに、いつの間にか陰陽の定義 五行の定義にはまり込ん
で、陰陽五行という自在な物差しの使い方がわからなくなってしまっています。
定義された言葉がまるで存在そのものと自分の目の間に大きな黒い雲となって広
がり、存在そのものが見えなくなってしまっているような感じです。

言葉はとても強いものなので、非常に危険です。言葉の危険のもっとも大きなも
のは、表現してしまうと理解できたような気がすることです。名前をつけてしま
うとそれをわかったような気になってしまう。多くの言葉が積み重なっていると
深い理解がそこにあるような気になってしまう。そして言葉という腐葉土の中で
一生を終えることとなるわけです。

さて、一元流鍼灸術では、その言葉を使って勉強していくわけです。けれども、
スタッフがいつも気をつけていることは、言葉におぼれない、言葉に踊らされな
い、存在そのものを理解しようとする姿勢を中心として言葉を理解し発している
ということです。ですからまだ言葉を知らない初学の方々であったとしても、お
かしいと思うことは積極的に発言していただくことで、スタッフの理解が進み一
元流鍼灸術もさらに進歩していくことができます。

一元流鍼灸術の良さは実にここ、存在に対する謙虚さ、にあるわけです。

                      伴 尚志
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■臨床の場は古典発祥の地


鍼灸をやっていく上で古典を学ぶということをどのように位置づけるかというこ
とは、「どういう鍼灸をしたいのか」で、答えが出てきます。東洋医学的な観点
から身体をどのように把握するのか、ということに関心のない鍼灸師にとって
は、古典など必要ありません。指の感覚を鍛えて後は営業に徹するというのがそ
の目的に沿っているでしょう。

これに対して、あくまで東洋医学的な観点から身体を把握し治療を行いたいとい
う鍼灸師であれば、ではその東洋医学的な観点とは何か。その立ち位置はいずこ
にあるのか、と問い合わせるためだけにでも、古典を読むことは必要になりま
す。

その際にもし、東洋医学そのものがその当時の人間観を基にした観察によって成
立しているということに思い至るならば、読む必要のある古典とは、古代の人間
観を記載している哲学書や宗教書になるでしょう。これはすなわち、諸子百家を
学ばなければならないということになります。

東洋思想が揺らぎながらもゆるぎなく立っていた時代、東洋医学は東洋思想の人
間観を土台にしていました。

その思想の主流としては朱子学、儒教ということになります。宋代にできた儒教
である朱子学は、その当時の古典である春秋戦国時代の書物を体系的にまとめな
おしたものですから、東洋医学の古典である黄帝内経の人間観もこれを基にすれ
ば理解しやすいのではないだろうか、とあたりをつけています。この朱子学の基
となった太極図の解釈が、一元流鍼灸術のテキストの中で述べられているのは、
そのためです。

このような人間観を基盤として、身体感覚を磨き、経絡を発想し適用し臓腑と経
絡との関連を考え、天人相応の観点に立って不足を補いながら生きて働いている
人体の構造を体系化したものが、まさに「黄帝内経」です。

この中の臓腑経絡に関する体系化は古代人が纏め上げた東洋医学的人間観の中核
となるもので、一元流鍼灸術の柱の一つです。

しかし臨床の場は、古典発祥の地そのものです。ですから今、新たに書きとめら
れる症例報告は、それ自体が古典となっていきます。古典となすべく臨床を積み
重ねていくわけです。

古典を臨床の場で読むためには、東洋医学的な人間観が真実か否かその前提を確
認しつつ格闘し検証する作業が必要となります。そして、その結果自らの血肉と
なった人間観を手にして再度、患者さんを把握していくわけです。


                  伴 尚志
■学ぶ姿勢:二態


学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。
一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。

外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。
内、というのは、自身の内なる叡智に照らし合わせることです。
この内なる叡智は、仏性とも言います。

東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感
動した経験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味を
これも古人の解釈などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書
いてみたりします。古人が本当に言いたかったのはこれではないのかとか、この
あたりの言葉の解釈は明確にしにくいので後人に託させていただきますなどと述
べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の言葉を蘇らせようとします。よくあ
る「学問」の方法です。

これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自
らの内なる叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機
として、あるいは師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出し
ていく作業を行うわけです。

考えてみると前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は、自身の内なる
叡智と学びたい東洋思想とが感応しあったことからその厖大な努力が始まってい
ます。けれどもいつの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうに
して日常の作業と同じように積み重ねられていきます。

けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる
理由はその叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった
感動は、外なる叡智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋
学あるいは朱子学としてまとめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典
を、内なる叡智に従って彫刻し直し、後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整
えてくれたわけです。


東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め
続けるのは外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かという
ことは自身の内なる叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそう
な師について学ぶわけです。いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上
げして、治療家になるために再生しようとしているわけです。

けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということが
わかります。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目
の前に患者さんが現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する
場となります。その時にあたって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた
者たちは迷い出すしかありません。何も手を下せない。病名をつけてもらわなけ
れば何も手を下せないのです。


これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していること
を、患者さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器
を知り、その自身の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨く
という行為となります。

一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、内外の叡智を統合する技術なのです。


                     伴 尚志
■東洋医学の勉強法


東洋医学の勉強を始めていくうえでたぶん一番最初の障壁は経絡経穴を記憶する
ことではないかと思います。ことに経穴は体表の位置を指示する点の名前ですの
で、記憶しにくく指し示しにくいものです。一度これをしっかり記憶するように
すると、少しは東洋医学に足を突っ込んだ感じになります。

一元流鍼灸術のテキストでは今の時点でまとめることのできる東洋医学の人間観
の最前線をみることができます。東洋医学には深い伝統があります。これはまっ
すぐ前進してきたものではなく、松の木の根のように、さまざまな場面で頭を打
ちながら右へ左へ匍匐前進してできあがってきたものです。言葉が重ねられて複
雑になっているように見えるそのもっとも基礎にあるものが、人身は一小天地で
あり、宇宙と人とが相応関係にあるという概念です。そして、その宇宙をより詳
細にバランスよく理解していくために陰陽五行論があります。

このあたりの詳細は、テキスト『一元流鍼灸術の門』の総論部分に書いてありま
す。ここが基本です。臓腑経絡学は今の時点で咲いている花となります。勉強会
では弁証論治を行ない続けることによって、さらによりよい人間理解を進めるこ
とができるように悪戦苦闘しています。この悪戦苦闘が勉強会の生命であって、
現代の臓腑経絡学の構築に役立つものであると考えています。


一元流鍼灸術では気功を含めて神秘思想に足を踏み込むことはありません。個人
的な趣味で行なうことに対してどうこう言うことはないのですが、自己の内部に
中心を築き、自己を安定させるという方向に治療も個人の修養も向けていきます
ので、あたりまえに今ある自分を受け入れるというところに身を置き、神秘的な
能力を得るというあたりと関係を絶っています。

一元流では、禅を用いたりもしますけれどもこれは心身の脱落のため、すべてを
手放すためであり、何かを身につけるためではありません。心も体もお掃除を基
本とし、その当たり前の人間を理解し、治療するための人間理解の方法を提供し
ているわけです。

勉強会の場は月一回会場を借りて行なわれるオフ会と、この日々のメイリングリ
ストです。眺めるだけではなく質問することなどを通じて参加することが大切で
す。ことに基本的なところで疑問を持つというのは初心者にしかできないことで
すので、遠慮なく発言していってください。


           伴 尚志

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