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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/


■古典を読み身体を読む心


鍼灸医学は、東洋思想に基づいた人間学にしたがって人間を見つめ、それを通じ
て、その生命医学・実証医学としての体系を作り上げてきました。

この基本とは何かというと、観ることです。観て考え、考えてまた観る。事実と
は何かということを観る、とともにその底流に流れる生命原理について思いを尽
す。その無窮の作業の果てに、現在古典として伝えられている『黄帝内経』など
の書物が出来上がっているわけです。

鍼灸師としての我々はそれらの書物を基にしてふたたび無窮の作業の基となって
いる実態、古典を古典としてあらしめたものそのものである、目の前に存在する
人間そのものに向かっていくわけです。そして、どうすればよりよくそれを理解
できるだろうか、どうすればその生命状況をよりよい状態へと持っていくことが
できるだろうかと探求していくわけです。


古典というものは、いわば身体を旅するための地図の役割をしています。時代に
よって地域によって違いはあります。けれどもその時代その地域において、真剣
に人間を見続けたその積み重ねが、現在我々が手にすることのできる資料として
言葉で残されているわけです。これはまさにありがたいことであると思います。

深く重厚な歴史の積み重ねは、東洋医学の独壇場ともいえるでしょう。けれども
その書物の山に埋もれることなくそれを適宜利用していけるような人材を作ると
いうことが、学校教育に求められることです。外野としての私は、その支援の一
つとして、中心概念をここ「一元流鍼灸術の門」に明確にしているわけです。そ
れが気一元として人間を見るということと、その古代哲学における展開方法とし
ての陰陽と五行の把握方法であるわけです。


古典という地図には読み方があります。身体は時代や地域によって異なります。
現代には現代の古典となるべき地図が、実は必要となります。現代の人間観、宇
宙観にしたがいながらも、目の前に存在している人間を観ることを徹底すること
によって、はじめて古典を綴った古人とつながることができます。そして、現代
には現代の古典が再び綴られていくこととなるでしょう。これこそが澤田健先生
の言われた、「死物である書物を、活物とする」技となります。


思えば、古典を読むという際の白紙の心と、身体に向かう際の白紙の心とは同じ
心の状態です。無心に謙虚に、対象をありのままに尊崇する心の姿勢が基本とな
ります。


                     伴 尚志
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■古典を読むということ

古典を読むということは、自分の意見の歴史的な位置づけを得ることができま
す。これによって、自分の意見を学問のレベルに引き上げることができるわけで
す。

今、臨床の場という古典発祥の地に立つことによって、東洋医学の中核である臓
腑経絡学を磨き上げ書き換えていこうとすることが、東洋医学の先人たちへの一
元流鍼灸術による恩返しとなります。


■人間理解への情熱こそが古典の基本

東洋医学には数千年の積み重ねがあると言われています。数千年の積み重ねとい
っても、その間、同じ言葉が繰り返されてきたのであればそれはただ、数千年の
停滞でしかないということが理解されなければなりません。数千年前の思い付き
を現代においても踏襲し続けているとしたらそれは、いかなる宗教いかなる信仰
心でしょうか!そして、いかなる怠慢でしょうか!


とはいえ、東洋医学の基本的な古典はその成立当時にすでに深い臨床の積み重ね
がありました。生命へのどのようなアプローチがどのような生命状態の変化を及
ぼすというだけでなく、それらの変化を系統立てて纏め上げています。そこにあ
る、人間理解への激しい情熱と執拗さとをこそ、我々は学び取らなければなりま
せん!

そして、その同じ執拗な情熱のみが、古典を乗り越えさせ、より効果的な臨床を
築いていく原動力となるでしょう。一元流鍼灸術が目指すものは、古典に埋没す
ることではなく、古典を作り出す能力を獲得することです。言葉にされた古典を
読むことだけでなく、その言葉の先にある生命理解を身につけることです。


                  伴 尚志
■経穴名に沿って経穴があるのではなく、経穴に名前が付いている件

 【体表観察こそが今生きている古典である身体を読み取るための武器である】

学校や素人は、この経穴がこの疾病に効果があるという言葉を信じて勉強を積ん
でいきます。けれども、実際に患者さんにあたると、経穴を見つけることができ
ません。それは経穴名が体表に書いてあるわけではないためです。あたりまえの
ことですが。このあたりのことを乗り越えようとして経穴を探す方法が工夫され
てきました。けれどもそれは体表を機械的に計測して当てはめるもので、経穴そ
のもの(沢田健先生のいわゆる生きて働いている経穴)を見出すための鍛錬では
ありません。そのため中医学などでは体表に触れて経穴を探すこともせず、頭の
中で作られた位置に基づいた場処に処置することとなっています。

会話を成立させるためあるいは情報を残すためにはその場処(体表の一点)を指
し示す名前が付いていなければならず、その名前が同じ場所を指していることを
前提として(特に近代は)経穴学が発展してきました。どの経穴はどのような疾
病に効果があるといういわゆる特効穴治療などもこの過程で研究され、その記録
が積み重ねられてきたものです。

けれどもこのての勉強を積み重ねているうちに忘れてしまうことがあります。そ
れは、体表を観察することによって初めて、経穴の一点を手に入れることができ
るという単純な事実です。「名前がつけられる以前からそこに存在していた経穴
表現を見出すこと」ここに古典を越えて事実そのものに立脚することのできる鍼
灸師の特徴があります。【体表観察こそが今生きている古典である身体を読み取る
ための武器である】ということ、この事実を認識することから一元流の学は始まっ
ています。


■質疑■

> 勉強会の実習で、いつもペンで印をつける経穴(陥凹・ゆるみ・
> 腫れなど)は、「生きて働いている経穴」ということなのでしょ
> うか?
>
> それはテキストにある「反応の出ている経穴」と同じものでしょ
> うか?


そうです。

> また、印をつけられない経穴は何なのでしょう?

微細な反応なので見えにくい経穴です。


> いま私の手元にある『経穴マップ』という本によれば、WHOの
> 国際標準で全身には361穴の経穴があるとのことであります。
> これは経穴の名前が361あるということで、誰でも常に361
> の経穴があるということではないわけでしょうか?

誰でも常に361の経穴があるということではありません。そのよ
うな標準化というのは無意味だということを言っています。

これはいわば、国家における町の数を数えるようなものです。体調
や状況生活習慣によって反応が出ている経穴の数も状況も変化しま
す。生命を取り扱うということはそのようなことです。国家におい
て町は生命の結節点ですが、時代によって地理によって状況によっ
て数も状況も大きく変化します。それと同じことです。

場を、面としてとらえる。その中の焦点を一点に定められる場合そ
れが経穴となり、そのあたりを指し示している経穴名を使用してそ
の位置を指示する。といった感じで経穴の探索を執り行います。

阿是穴は多くの場合経穴の正位置からの変動という発想で把えます。
そしてその変動には意味があるだろうと思います。足裏や手掌など
は古典で指示されている経穴名が少ないので、その位置が分かりや
すいように新しい名前をつけて呼ぶようにしています。

             伴 尚志
■名前に存在が付いているのではなく、存在に名前が付いている件

書物になると、何穴は何に効くという書き方しかできません。そしてそれを読ん
だ人々は、なるほどツボっていうのはそんなに効くものなのか、と驚いてその何
穴がどこにあるのか探し始めます。

でもその前に気づくべきです。体表に経穴名は書いていないということに。何穴
を初めて使った人は、ただ体表観察をしていただけだということに。そこで経穴
を探り当て、その位置の目標として名前をつけたに過ぎないということに。

ですから大切なことは体表観察です。どのようなものをツボとするのか。そこを
まず押さえていきましょう。

次に理解すべきことは、経穴に治療効果があるのではないということです。経穴
は身体の一部のごく一点にすぎません。その経穴がどのような作用をその身体に
及ぼすのかということには本来、個人差があると考えるべきです。

人間の構造がよく似ているから、その体質やその時の状況を考えもせずに、現れ
ているかどうかもわからない何穴が何の病に効くと信じてそのツボを動かすとい
う、その発想そのものがそもそもナンセンスであるということに気がつく必要が
あります。

そのために個別具体的な人間把握の方法―弁証論治があるわけです。

一元流鍼灸術では、あるがままのものをあるがままに観て、あるがままそれを理
解する、この弁証論治の方法を提供しています。

                           伴 尚志

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