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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■コラム 詩人の魂


大学時代の友に聞いた「おまえは何故詩を書くのを止めたんだ。おもしろかった
のに」と。友は答えた。「おれは書き物に興味がある訳じゃないんだ。俺が本当
に興味があったのは詩人の魂なんだよ。詩が湧き出てくるその泉の根源に触れた
かったんだ。書かれた言葉や作られた造形の美しさには興味がない。そこにあ
る、触れれば命が輝きでて止まない、そのみずみずしい心に触れたかった。だか
ら俺は詩を書いていた。」

私は聞いた「じゃ、何故止めたの?」

「だって、書くということは作るということに近くて、その感じる根源から少し
離れるんだよな。俺はそこに至った。そして俺はその根源の場所にいたいだけな
んだ。だからもう言葉はいらない。それについて語り出すことがそもそも、その
場所から少し離れることだから。もう書く必要はないんだ。」

「おまえはそれを手に入れてその場所にいるってことか?詩人の魂、詩が湧き出
て言葉になる以前の場所、そこにおまえはいるということなのか」

「そうだ。誰に対して説明する必要などない。存在とともに踊る歓喜の中心に俺
はいる。」

私は証明してくれと、論証してくれと懇願したが彼は頑として受け入れなかっ
た。ただ一言「求め続けろよお前も」といい、手を振って去っていった。

なぜ、証明もなしに彼は根源に触れていると言えるのだろう。傲慢なのではない
だろうか。なぜ、言葉で表現することを拒んだのだろう。表現したものしか聞き
取ることはできないのに。

けれども確かに思う。彼こそが本当の詩人なのだと。無言の詩人なのだと。詩人
の魂そのものなのだと。

                  伴 尚志
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■統合治療の一角として


東洋医学は本来統合医療であって、その裾野の底辺は生活指導すなわち生活習慣
の教育にあり、徐々にレベルを上げていって、食事の指導、心の指導となり、最
後に富士山の十合目あたりで初めて治療行為が出てくるものです。治療行為が東
洋医学のごく一部に過ぎないということはたいへん大切なことです。このため東
洋医学の本質は未病を治することにあると言われているわけです。

東洋医学では総合的な視点で人間の生活を把えようとします。また、人間への理
解をさらに深め、心身の構造についてもひとつの見解をもつに至っています。そ
れは、単に目に見える骨格や血脉だけでのことではありません。全身の内外を結
ぶ生命力の流れとしての経脉を据え、流れの行き着く先―溜まり場として絡脉が
奇経を据え、生命力の出入する門戸として経穴を置いています。さらにその上、
魂神意智魄精志という五神が五気を結聚させて五臓を造り、その力がを身体の基
本とするという神秘的思想をも包含しているのです。

東洋医学はこのような、ゆるやかで広がりのある生命構造の概念を持っているわ
けです。


東洋医学では心身は一元のものであると捉えられています。精神的な問題が身体
に影響を及ぼし、身体の問題が精神に影響を及ぼすというように、相互に密接な
関係を持つものとして捉えられています。

そしてこの生命の状態―心身の揺らぎは四診によって非侵襲的に把握されます。
ここには繊細な技術と論理的な思想が必要となります。東洋医学ではこの揺らぎ
を調えることができます。これが未病の状態の生命力を調えるとともに、すでに
症状が出ている場合でもそれを調え治療する技術となっています。

東洋医学の身体観に基づいた四診を、現代の批判的精神によって磨いていくこ
と。これが一元流鍼灸術に課せられている課題であると考えています。このよう
な形でいわゆる統合医療の中核を担う思想体系として、東洋医学は再生されるで
しょう。

                     伴 尚志
■附録二:『臨床哲学の知』木村敏著


精神病理学の泰斗、木村敏氏は、その『臨床哲学の知』の中で以下のように述べ
ています。


症状と病気のこの関係は、精神科でも同じです。患者さんは症状を出すことで一
種の自己治癒のようなことをしているところがありますし、医師はそこを見極め
なければならないわけですけれども、いまは、精神病になるのは脳が生化学的な
変化を起こして例えばドーパミンなどという物質を出し過ぎるからであって、そ
れが幻覚や妄想を引き起こすんだといった考えにとらわれている。精神医学も症
状を消すことしか考えない。脳機能の研究自体は大切なのですが、それがもっと
深いところにある心それ自体の病気の原因や病理の解明を妨げているとしたら、
これは大問題でしょう。

家族や周囲の社会に迷惑をかけているのは症状です。病気そのもので迷惑をかけ
ているわけではない。だから、症状を除去することが周囲からの期待に応えるこ
とになる。症状が消えたら治ったということになる。精神医学が症状だけを見る
というのと、患者自身のことより周囲の社会の安全を考えるというのとは、実は
同じことの両面なんですね。

わたしには非常に辛い記憶がひとつあります。薬を使って症状をきれいに取った
ら、その患者さんが自殺してしまったということがあるのです。症状を取られる
ということは、患者さんにとっては自己防衛手段を奪われるということと同じで
すから、あとは自殺するしか仕方がなかったということなのだろうと思います。
まだ若いころの出来事ですが、そのときにこれはいけないと思いました。

症状はひとりでに消えるまで無理にとってはいけないという考えは、そのとき以
来、いまもずっと変わりません。患者さんがあまりに興奮しては診察自体が成り
立たないし、妄想や幻想がひどいと患者さんの社会人としての評価にかかわりま
すから、薬はそれなりにやはり使いますけれども、それで症状をきれいに取って
しまおうなどということはまったく考えません。風邪と同じで、症状は出す必要
がなくなれば自然になくなります。症状が出るのは、生きる力、病気と闘う力が
あることの証拠なのですね。

しかし、ここ二十年、三十年、精神医学というものは、まったくそうではなくな
ってしまいました。症状をとること以外は何も考えなくなってしまっています。
いまの状態が続けば、精神病理学という学問は、日本の医学界からいずれ消滅す
るかもしれませんし、ことによると実質的にもう消滅しているのかもしれない。
病理学というのは、これは身体の病理学でも同じだと思いますが、病気そのもの
の成り立ちを研究する学問であって、症状のことは、病気の本質と関係があるか
ぎりでしか問題にすべきではないのです。脳の変化を除去して妄想をとればそこ
でお終い、精神医学が行うのはそこまでということになっていけば、精神病理学
なんて学問は必要がなくなる一方でしょう。 」〈『臨床哲学の知―臨床としての
精神病理学のために』洋泉社刊 2008年 53p〉

この言葉は、症状とそれに対する処置として考案され、症状が取れたことを確率
的に論じる「エビデンス」を安易に語る傾向がある鍼灸界においても、噛みしめ
るべき言葉でしょう。

古典において提出されているものの中で重要なものは、単なる治療技術なのでは
なく人間観です。その人間観を読み解くことなくして、東洋医学を学んだとは言
えない、行じているとは言えない、そのように私は考えます。

そしてその人間観をさらなる深みへ向けて探求する技術として、体表観察を中心
とした四診に基づいた鍼灸術があるとも考えています。いわば、臨床鍼灸を哲学
の次元にまで高めていくということが、これからの鍼灸師の目的となるべきだろ
うと考えているわけです。

木村敏氏の重い言葉は、このような目標のための基礎となるものです。

症状が出るということと、生命力との関係については、以前掲載した私の論文
「生命の医学に向けて」http://1gen.jp/1GEN/RONBUN/Life-medicine.HTMの63ペ
ージ「好循環悪循環と敏感期鈍感期」に図を用いて解説されています。大切なこ
とは、症状は氷山の一角にすぎないものであり、その症状を支えている生命の深
く大きな動きこそが大切であるということです。


伴 尚志
■附録一:釈迦の悟りと難経


ある時、忘年会で私は、お釈迦様の悟りの話をしました。

お釈迦様の修業の時代、道を求め続けて自身の心身を鍛え上げ、ついにはその身
を飢えた虎の親子に捧げたりもしたのに、お釈迦様はほんとうの悟りに至ること
はできませんでした。それはどうしてなのでしょうか。ほんとうの悟りというの
はどこかにあるものなのでしょうか。お釈迦様は(その当時はゴータマシッダル
タというただの泥に汚れた修行者でしかありませんでしたが)修行の果てにとう
とう川の畔で倒れて死を待つような状態となってしまいました。そのとき、近所
の一人の少女が、その姿を見つけ、温かい山羊の乳を与えてくれました。そこで
彼の中に何が起こったのでしょう。それは、生命の歓喜が全身に走ったというこ
とです。その後、菩提樹の下で暝想し、その生命の歓喜の根源を味わい続けまし
た。

求めていた苦行の時代には得ることができず、一杯のミルクで豁然と開いた悟り
とは何だったのでしょうか。それは、自身の内側に生命があり、いつもその生命
を喜んでいるということです。ひとりひとりの中に生命があり、生命があるとい
うことこそが感動の源なわけです。そしてその生命の中心は、臍下丹田にありま
す。それは人身の中心なのですが、そこに浸ると、宇宙を覆う光の織物の中の縦
糸と横糸の交差する結び目が、私自身であるということが理解できます。この膨
大な生命の宇宙の光り輝く織物の中の一つの結び目である自分自身を感じること
ができるわけです。

そこに意識を置くということ、それが今、ここにあるということです。これを実
際的に感じ取るために、禅の修行があったのであろうと思います。この内側に潜
心するために、考えることを止め、探すことを止め、ただ今ある自分に帰るわけ
です。

この臍下丹田を中心とした人間観が、難経が劈(ひら)いた東洋医学の宝です。
このことを、私はこれからもしっかり把持し、理解を深めていきたいと思いま
す。

                   伴 尚志
■失敗の研究

弁証論治を起てて、さぁ治療するぞというとき、ふたたび迷うことがあります。
それは、弁証論治そのものは自信を持って起てられたんだけれども、果たしてそ
の方針で主訴の解決に至るのだろうかという疑問です。

実は、歴代の医家の症例集などを読む理由の多くは、このあたりの頭の柔軟性を
広げるというところにあります。

実際に患者さんに出会うと、目の前の患者さんが困難に直面している局所に着目
してしまい、それを何とかしたいという欲が出てくるわけです。そこで、弁証論
治と実際の治療との乖離が生まれてきます。弁証論治は起てたのだけれども雑駁
な治療をしてしまい、何をやったのか実際のところはわからないという事態に陥
るわけです。

これが臨床家の一番の問題となります。治ったけれどもその理由がわからない。
治せなかったけれどもその理由がわからない。これではいつまでたっても臨床が
深まることはありません。

病因病理を考えて弁証論治を起てるときに多くの場合、全身状況の変化を追うと
いうことに主眼がおかれてきます。そのため、実際に患者さんが困苦している部
位と全身とがリンクしているのか否かというあたりに確信がもてなかったりする
という事態が起こります。また、リンクしていると思えても、実際そうなのかど
うか。果たしてそれで治療として成り立つのだろうかという不安がよぎります。

そのような時の心構えとして、

1、問題点を整理しなおす
2、臨床は失敗例の積み重ねであると腹を括る(これでだめなら次の手をといつ
も考えておく)3、治療処置を後で振り返って反省できるようなものに止める
4、ひとつひとつ自分が何をやっているのか確認しながら手を進める

ということが必要となります。上手に失敗することができると、問題の所在が明
確になります。弁証論治に問題があればそれを書き改めます。処置方法に問題が
あればそれを工夫します。治療頻度の問題であればそれを改めます。上手に失敗
することができるとそこに、さまざまな工夫の花を咲かせる事ができるわけで
す。

下手に成功すると、安心してしまい、次もこの手でいこうなどと思い、臨床が甘
くなります。反省もしにくくなり、成功例の積み重ねのみを自慢する、宗教家の
ような臨床家に成り下がってしまうわけです。

大切なことは、上手に失敗し続けること。その積み重ねが自分自身の本当の力量
を高めていくということを知ることなのです。

                    伴 尚志

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