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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■ 暝想―簡易座禅の薦め


今ここにある自己、と一言で言いますけれども、これな何なのでしょうか?

今というのはまったけき存在なのですけれども、
今をつかみとることは人にできることではありません。
こことはどこなのでしょうか。
時間を定め場所が定まることによって存在はその姿を現します。
けれども私たちは、今よりも前や後を「考えて」いて、
まさに今この瞬間にいるということはとても少ないのです。
今この瞬間にいるのではなく、ただ妄想のまっただ中に住んでいるだけです。
これは驚くべきことなのですが、事実です。
妄想の中に住んで、自他を比較して、思考の輪を回しています。
いつも相対的な自己しか見ることができません。
「浮遊する自己」しかみようとはしないのです。
どうしてなのでしょう。そういう性(サガ)なのでしょうか・・・

このような「浮遊し妄想する自己意識」を手放して
今ここにあるリアルな生命を感じ取ること。
この「今ここ」に落ちていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。

それを通じて「相対的な自己」を手放して「絶対的な自己」を手に入れてほしいのです。

「絶対的な自己」というのは、時々刻々変化し続ける自己です。

その時その時、変化している「絶対的な自己」がここにあります。

人の絶対性というのはこの、変化し続ける中での「今ここ」の絶対性にあります。

自分を見つめつつ、「今こここ」から始めるということがとても大切なことです。

今を絶対としつつそれを毎瞬乗り越えていけるような「ゆとり」を持ち続けること。

これが、
切診の練習でも、
弁証論治を作るときでも、
治療のときでも、
養生のときにも、
もっとも大切なこととなります。

その絶対性―リアリティ―を看取するためには、止観が必要です。
止観 ― 妄想することを止めること ―
そのためには動いているよりも座っている方が少しわかりやすいので、
この「今ここ」に落ち着き、それを探っていくために、
私は暝想―座禅を薦めています。

暝想のための資料と誘導の言葉を用意していますので、
ご希望があれば私におっしゃってください。
差し上げます。


                    伴 尚志
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■自他一体が般若波羅蜜多


これは、自身と同じように隣人を愛せよという聖書の言葉と同じ。
自身と同じようにしか隣人を愛することはできないとも言える。
自身に冷たければ隣人にも冷たい。
自身に差別をすれば隣人にも差別をしているのである。
隣人を軽蔑しているものは自身を軽蔑しているものである。

軽蔑が悪いわけではない
差別をすることが悪いわけではない
冷たくすることが悪いわけではない

自身の内であるそれに対して
軽蔑し冷たくし差別をしているのである
自分自身の内側の陰翳として捉えなければならない

そして、その陰翳というものは実は、
自分自身を彫塑していく上での手法
建物で言えば光と影の作成方法のようなものである。


  小乗即大乗

小乗自若愚昧心 大乗自若驕慢心
小乗求自己 大乗表自己
自己即佛 般若波羅蜜多
自己即他 般若波羅蜜多
自他即通 真如一体


■超訳 讃仰 般若波羅蜜多心経


私が観音菩薩だったころに、般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)を深く行(ぎょ
う)じた時、五蘊(ごうん)〔注:色受想行識〕がすべて空であるということを
はっきりと覚ることができ、すべての苦しみや災厄から解き放たれることができ
ました。

舎利子(しゃりし)よ、色(しき)〔注:見ることができるもの〕に空(くう)
でないものはなく、空に色でないものはありません。色はすなわち空であり、空
はすなわち色なのです。受(じゅ)想(そう)行(ぎょう)識(しき)もまた同
じことです。

舎利子よ、諸法が空相を呈しているわけですから、生まれることも滅ぶこともそ
もそもなく、垢(けが)れることも浄(きよ)められることもそもそもなく、増
えることも減ることもそもそもありません。ですから空の中に色はそもそもな
く、受想行識もそもそもないのです。眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜっ)心
(しん)意(い)もそもそもなく、色(しき)声(しょう)香(こう)味(み)
触(そく)法(ほう)もそもそもありません。見ることができる世界というもの
もそもそもなく、意識することができる世界というものもそもそもありません。

無明というものもそもそもないのですから、無明がなくなるということもそもそ
もありません。また、老いや死というものもそもそもないのですから、老いや死
がなくなるということもそもそもありません。苦(く)集(しゅう)滅(めつ)
道(どう)〔注:仏教の根本教理を示す語。「苦」は生・老・病・死の苦しみ、
「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境
地、「道」は悟りの境地に達する修行〕などそもそもないのです。

知ることができるものもそもそもないのですから、得ることができるものもそも
そもありません。ですからこれによって得るところのものというものもそもそも
ないのです。

私である菩提薩埵 (ぼだいさった)〔注:道を求めて修業している自己の本
体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、心にこだわりがなくなります。心
にこだわりがなくなることによって、恐怖がなくなり、一切の混乱した夢想から
遠く離れることができます。ですから、涅槃〔注:死生や善悪の判断を超えたこ
の世界の実相そのもの:相対界ではない絶対界〕を自由に探求することができる
ようになります。

私である過去現在未来の諸仏〔注:時代を超えて変わりなく存在する自分自身の
本体〕はこの般若波羅蜜多を知ることによって、あーのくたーらーさんみゃくさ
んぼーだいを得ること〔注:時空を超えた世界ー大いなる生命そのものと一体と
なり、その光を帯びること〕ができます。

ですから般若波羅蜜多をよく知りなさい。ここに大いなる神呪、ここに大いなる
明呪、ここに無上の呪、ここに並ぶもののない呪があります。一切の苦しみを取
り除くことができます。本当です、嘘ではありません。

それではその般若波羅蜜多への呪〔注:じゅ:のりと〕をお伝えしましょう。今
その呪を唱えます。

ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー〔注:手放しなさい:手放しなさい:
すべてを手放しなさい〕はらそーぎゃーてーぼーじーそわかー〔注:すべてを手
放して 存在そのものでいなさい〕



■般若波羅蜜多とは


時空を超えた存在そのもの。仏性の本体であり彼岸である。真実の体験であり、
人生の中でただ一つだけ体験しなければならない境地、場所である。般若波羅蜜
多を体験し、自覚し、意識し続けそれを表現するように努力すること。そこに人
生の本懐がある。

般若波羅蜜多はすべての存在の中にあり、もちろんすべての人々の中にある。生
を支えているエネルギーであり、生命の喜びそのものでもある。驚くべきことに
人々はそれが自分自身―自分の本体であることを知らない。

苦集滅道は、迷いの様相であり、迷いから覚める道筋である。けれどもそれは本
体ではない。なぜなら人は、その存在そのものがすでに覚りの中にあるのだか
ら。

般若波羅蜜多に気がつくということは、このことに気がつくということである。

一瞬の隙もなく一ミリの隙間もなく般若波羅蜜多は私を充たし世界を充たし続け
ている。

気を許すと!!! 意識は般若波羅蜜多の中に落ちていく。

深い呼吸とともにしがみついている想念を解き放ち、般若波羅蜜多の中心に落ち
ていこう。

生のなんと栄光に満ちたものであることか!

生命宇宙の真っ只中の光明の世界の中心に私はいる!

お互いのなかの佛を拝み日々暮らすことのできる仏国土とし、
お互いのなかの神性を日々讃仰しあえる世界が訪れんことを!

              伴 尚志
■コラム 師言:エゴイズム考


エゴイズムを悪く言ってはいけません。
エゴから人は始まるのです。
自分を愛する勇気、そこから意識としての生命が誕生します。
エゴのない人はまだ生まれていないか生きながら死んでいる人です。

エゴからはじまり、人は、エゴを深く探求して自らを深化し拡大させていきま
す。

そのことが精神の成長なのです。その成長を妨げてはいけません。
それを通じて人は、自分が世界の中で孤立して存在しているのではないというこ
とを知り、人と人とが結びつくことによって世界が構成されているということを
知ります。


エゴの深化は窮まることがありません。

ある民族はエゴを深化させることで自他の区別を設定し、その範囲内に自分たち
の存続をかけ、その民族性を設定しました。

ある民族はエゴを深化させて底が割れ、エゴがある間は成長過程であり、エゴの
枠組みが壊れた時、死がそこにあることを知りました。そこが世界の淵であると
感じたわけです。

またある民族はエゴの混沌の先に生死の超越があり、
生死を超越することで宇宙がまことに光り輝く一体の
生命そのものであることを知りました。
歓喜の踊りはそこで踊られ、生命の祭が始まりました。
美しい美しい民族の物語が語り継がれることになりました。


エゴがある人は大切な成長過程にあります。
自分の中にあるエゴを育てて大きな大きな樹にしなさい。
誰でもその下で憩うことができるような大きな大きな人になりなさい。

師はそう言われて去っていきました。

私は魂に刻むべくその言をここに残しておこうと思います。

 讃仰 一言真人 やんぬるかな 役の行者 小角


                    伴 尚志   拝


       小乗即大乗

小乗自若愚昧心      大乗自若驕慢心
 小乗求自己        大乗表自己
 自己即仏         般若波羅蜜多
 自己即他         般若波羅蜜多
     自他即通  真如一体

   伴 尚志
■コラム 師言:生きる


先生は言われました

生きることは祈ることです。
祈ることの本質は、自らを捨てきるということです。
祈りを通じてすべてを捨てきったところに祝福があります。
この祝福に感謝し歓喜し踊ることが生きるということそのものです。

生に感謝できないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
生に歓喜し踊ることができないときにはその傲慢に対して祈りなさい。
ひれ伏し祈ることを通じてその傲慢さを手放すのです。
そしてまた、始まりの場所にやってきなさい。
はなはだ孤独な美の美たる場所、
光り輝く生命の、歓喜の中心に。

        伴 尚志

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