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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/


皆様には忙しい年末をお迎えでしょうか。
本年は日本史に残る出来事があり、国民の民度が試されました。
そんな時代の中で、市井の一鍼灸師として私は自身に何を問い何をなしてきたの
でしょうか。

勉強会に関わり、学び続け、得ることはありましたか?
学ぶということは、自分自身のそれまでの価値観を棚上げし相対化することによ
って初めて起こる自分自身の価値観の変化を受け入れることです。そこには非常
に繊細な感覚―自己否定をしないままに自己批判をしていく繊細さ―が求められま
す。風に吹かれている羽毛を指の先にとどめるような繊細なバランス感覚を感じ
ることができましたでしょうか。謙虚でありながら自己を否定せずに受け入れて
いくというその心の位置に私はいたいと思います。

ということはさておき、本年をもって退会される方、休まれる方、ごくろうさま
でした。またどこかで出会い、学ぶということを確認することができるときがあ
ることでしょう。機会があればまたともに学びましょう。

継続される方。学ぶということはただ勉強会とその周辺だけで起こっていること
ではないということは言うまでもありません。人生のすべての時と機会において
学ぶという事象が発生します。そのことに気づくことができるかどうか、そのよ
うな心の「余裕」を持ち続けることができるかどうか、その心の構えを作ること
深めることを「謙虚さ」と呼ぶことができます。

私たちは学ぶことを諦めることによって自分を正当化することができます。それ
はとても傲慢なことで自分の人生を傷つけることにつながります。そこを手放し
て繊細な場処にい続けること。学び考え論理を構成していくというその智の位置
に私は居続けたいと思います。

来る年もよろしくお願いします。

                   伴 尚志



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■無明のただ中に立つ

無明―何もわからない見えない闇のただ中に、生きる意志と見続ける眼差しだけ
をもって立つ、これが毎回その臨床の場で行われている患者さんとの出会いで
す。そしてこのことは、古典を読み解く時にも、何かを真剣に理解しようとする
時にも実は、背後で働いている姿勢であり、決意です。その存在を「見たい」
「理解したい」「考えたい」と思う、その初発の気持ちが決意を伴い現れている
わけです。

好奇心―これでは他人事のようで冷え冷えとします。愛―その通りかもしれませ
ん、親の子に対するような思い、これを愛というのであればよりしっくりとしま
す。慈悲―黄帝内経にはそう書かれています。黄帝が衆生の苦しみを見て慈悲の
心を起こしたために医学が生まれたと。信仰―造物主である神への愛が、作り出
されたものへの興味の源泉となり、ついには西洋科学思想の基盤となりました。

同じ初発の動機を、真剣な眼差しを、私たちは持っているでしょうか。


「問う」ということの真剣さが「答え」を産み出します。「問い」の中には「答
え」が潜んでいます。

真剣に問う、という姿勢を私たちは持っているでしょうか。世界を当たり前のこ
ととして、何気なく生きているのではありませんか?

何も問うことのない者には何の答えも与えられることはありません。そこにある
ものはただ、怠惰な現実を遂行させる曖昧模糊とした惰性的に流れる時間だけで
す。


真剣に問うことなしに答えを探し求め、言葉の檻の中に安住してはいませんか?

東洋医学の長い伝統のほとんどは、そのような営為の積み重ねでした。

無明のまっただ中に立つことへの恐怖が、慈悲によって紡ぎ出された言葉にすが
らせ、その言葉を衣服のようにぶ厚くまとって自信のなさを補強してきたので
す。その言葉は時に、自身よりも無知な他者を裁くことにまで使われることとな
りました。


答えを探す者には答えは与えられず、真剣に問う者に答えが与えられます。答え
だけを探す者にとっては、答え探しは一つのゲームであり言葉遊びとなり得ま
す。それに対して存在をかけて真剣に問う時、そこには生命が響き合うような答
えが用意されています。


人生の客としてふるまい、自分の檻の中に住んで、与えられたメニューを選ぶよ
うに言葉を身にまとうことは、自分の檻を補強しているにすぎません。自分自身
を闇の中に閉じ込めているその檻を補強しているにすぎないのです。

心のどこかでは檻から出ようと泣き叫んでいるのに、すでに忘れたはるか昔には
自由になることを望んで泣き叫んでいたはずなのに、実際に行ってきたことは自
身を閉じ込めるための檻の補強であり、新たな言葉もその檻に新たに塗られるペ
ンキにすぎないなんて、何というパラドックスでしょうか!

その檻から出る方法は実はあるのです。自分自身の存在をかけて真剣に問うこ
と、自身に問いかけ続けること。そこで湧き起こる答えに素直に耳を傾けること
です。それこそが「道」に入る端緒となります。


もともと東洋の思想を読むということはそういうことでした。自身の行為を通じ
てその尊敬する古典と対決しながら、自分自身の心の位置を確かめ確かめ磨き続
けていくことによって、自身を成長させていく。これが古典を読むということで
した。

ところがいつの時代からか、古典がただ記憶するための言葉となり、試験に出る
古文となって、自らの魂をかけて古人と対決する姿勢を失わせてしまいました。
それがいわゆる学問となって大学を支配する段となるとすでに、古典はただ文字
の羅列となり学者は文字を正しく読み解くものとしての価値しか持たなくなりま
した。

その同じことが今、東洋医学でも起きているのではありませんか?中医学という
名の古人の言葉をまとめたものが学問として輸入されて、それを症状に対して適
用することによって処方が決まり配穴が決まるという、何という観念的な!何と
いう安易な!そんな行為が行われているのではありませんか?これがいわゆる学
問としての東洋医学となっているのではありませんか?


それに対して一元流鍼灸術で行われていることは、ほんとうの古典とするべきも
のは目の前の患者さんの身体であると見極め、その古典を読む真剣さにおいて古
人と我々との差はないのだと心を定め、古典である患者さんの身体と対決するこ
とです。ここにおいて文字で書かれている古典もその生命をまったく新しいもの
として賦活することができるでしょう。そしてこの位置にいることによって初め
て、我々がこの現代において古典を書き始めることができるようになるのです。

東洋医学の伝統を踏まえたうえで、そのような自己を鍛錬していくことこそが、
東洋医学の基礎を作り上げた古人への恩返しとなります。この恩返しを通じて蘇
った東洋医学は、これからも人類の健康に奉仕し続けることができることでしょ
う。


                  伴 尚志
■医学は人間学である


医学は人間学である


東洋医学は生きている人間をありのままに理解するための技術であると私は考え
ています。このことについて1989年に『臓腑経絡学ノート』の編集者序とし
て以下のように私は書いています。

『医学は人間学である。人間をどう把えているかによって、その医学体系の現在
のレベルがわかり未来への可能性が規定される。また、人間をどう把え人間とど
うかかわっていけるかということで、治療家の資質が量られる。

東洋医学は人生をいかに生きるかという道を示すものである。天地の間に育まれ
てきた生物は、天地に逆らっては生きることができない。人間もまたその生長の
過程において、天地自然とともに生きることしかできえない。ために、四季の移
ろいに沿える身体となる必要がある。また、疾病そのものも成長の糧であり、生
き方を反省するよい機会である。疾病を通じて、その生きる道を探るのであ
る。』と。

この考え方は今に至るも変わらず私の臨床と古典研究とを支えています。


                   伴 尚志
■病むを知り養生し、愚を知り修行す


養生するということは、自分が病んでいることを知っているということです。
自分が病んでいることを知っているので、その病から立ち直りたいと思うわけです。
修行するということは自分が愚か者であることを知っているということです。
自分が愚かであることを知っているので、その愚から立ち直りたいと思うわけです。
「健康」というのは、病んでいる自分を映す「鏡」のようなものです。
「健康」な状態に向かって養生を重ねていくわけです。
「悟り」というのは、愚かな自分を映す「鏡」のようなものです。
「悟り」の状態に向かって修行を重ねていくわけです。
お釈迦様が悟りを開いたのは実は、
自らが鏡になることを選択したということです。
そうすることによって、
「実は迷い」「実は病んでいる」人々を、
真実の世界―生命の世界に導こうとしたわけです。

健康な状態があるから病であることがわかるわけです。
健康になろうとしているということは今、病んでいるということです。
悟りの状態があるから愚者であるということがわかるわけです。
悟ろうとしているということは今、愚者であるということです。

これらの言葉から理解されなければならないことは実は、
病者であることを自覚することが、健康への萌芽であり
愚者であることを自覚することが、悟りへの萌芽である、
ということです。


養生とはとりもなおさず病者であることを自覚することであり、
修行とはとりもなおさず愚者であることを自覚することです。

生きるということは病み続けているということであり
悟るということは愚かであり続けているということであり
「病者愚者に徹すること」が実は、
健康へ悟りへの近道であると言えます。

自分は健康である、自分は悟りを開いているという言葉はとりもなおさず、
傲慢で鼻持ちならない言葉であり、
真の病者―真の愚者の言葉であるとも、また言える理由がここにあります。

この迷路をくぐり抜けて一気に悟りのただ中に立って世の鏡となった仏陀の
捨て身の救世心―慈悲心は、この深さで理解される必要があります。


                  伴 尚志

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