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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■臍下丹田と『難経』

さて、東洋医学ではこの「一」の括りについていくつかのパターン化された認識
が提供されています。これを一元流ではまた身体観などと呼んでおり、テキスト
の五行のところで述べられています。後天の気である土を中心とする身体観、人
身の天地をつなぐ木を中心とする身体観、先天の気である水を中心とする身体観
がそれです。

ことに最後の水を中心とする身体観は、臍下丹田の認識とも相まって仏教的な身
体観を表現するものとなっています。この臍下丹田を人身の中心とし、そこに意
識を置くことを重視する身体観は、そもそも仏教独特のものです。

『難経』において、腎間の動気が重視され、人身の根としての尺位の脉の状態が
重視されている理由は、仏教の影響によるものです。『難経』の成立と同じ時期
に、それまでの黄老道を基礎として占筮や咒符と登仙へのあこがれを混合してま
とめ上げた、道教ができあがりましたが、これも仏教の伝来によって支那大陸土
俗の文明が刺激されたことによるものです。

黄老道という周代から続く中国独特の天人相応・陰陽五行の思想が、臍下丹田と
いう中心を得ることによって「意識の位置」において大転換を果たしたわけで
す。その代表的な書物がやはり『難経』と同じ頃に成立している内丹法の古典で
ある『周易参同契』です。道教はこれ以降、内丹外丹の思想を修養の中心とした
思想体系を作っていきます。中国医学はこの道教の人間観に大きな影響を受け、
また道教徒自身も重要な担い手となっています。

しかし日本においては学問の担い手が僧侶だったこともあって、道教の人間観よ
りも仏教の人間観の方が色濃く伝来しています。そのため、日本医学においては
腹診が重視され、臍下丹田の重要性がより強調されることとなりました。気一元
の観点で難経を読み直した『難経鉄鑑』が誕生した背景はこのあたりにあると私
は考えています。

そしてそれは実は、すでに存在していた『黄帝内経』とは別に『難経』を書くこ
ととなった『難経』の作者の本当の意図なのではないかとも、私は密(ひそ)か
に考えているのです。

                    伴 尚志
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■「一」つの括り

「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意
識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。存
在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかとい
うと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙を見ています。であれば
生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとま
た別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこと
となります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのも
の―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのも
の」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあ
るそれ―という言葉が相当します。

この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提と
しているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠
組みをもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲が
あるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいま
す。

陰陽を成り立たせるにも五行の概念で分析を進めるにもまず大前提としてこの
「一」の括りを意識することが必要です。この一つに括られているものを、二つ
の観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけです
けれども、一つのものをよくよく観ていくための概念的な操作を陰陽論ではして
いるわけです。

同じようにこれを五つの観点から見るという概念的な操作をすることを五行論と
呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも
少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。

陰陽論も五行論も一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているも
のです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表
現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識す
ることが大切です。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間
にある表現されていないもの、いわば言葉の裏側を認識することがとても大切な
のです。


                      伴 尚志
■「一」の視点に立つ

一元流鍼灸術では「一」ということの理解を深めることが要求されています。こ
の「一」というのはいったい何なのでしょう。何を意味しているものなのでしょ
うか。

ある会で講演を頼まれ、その会で発行している資料をすべて取り寄せてみまし
た。とてもよく勉強されていて、独創も多いのですが、ただ一点欠けているとこ
ろがあり残念に思いました。それが「一」の視点です。

東洋医学は汗牛充棟と言われるとおり、非常に多くの言葉が積み重ねられてきま
した。医学を支えている人間観ということから考えると、大陸の思想全体が網羅
されてきますので、一つの大いなる文明そのものを学ばなければならないのでは
ないかと気が遠くなってきます。まぁ実際その通りなのですが・・・

けれどもここで注意を払う必要があることは、言葉はただ「何者か」を指し示し
ている符号に過ぎないということです。古代の発語の時点においては確かにその
何者かを意識していたはずなのに、時代を下り言葉を連ねるのがうまくなるにつ
れて、徐々に言葉はそのリアリティーを失っていきます。そして、言葉に言葉を
重ねて学者然とする一群の「偉い」人々が出現しました。もちろん彼らは古い時
代の花の蜜を現代に伝えるミツバチのように言葉を運ぶことはできますし、彼ら
の影響で私どもは今勉強することができるわけですから、たくさんの感謝を捧げ
る必要があります。

けれども我々が学んでいく際、とても大切なことが実はあります。それは、時代
を超えるミツバチは言葉を運んでいるのであって、発語のリアリティー―初めて
言葉が発せられなければならなかった瞬間の感動―を運んでいるわけではないと
いうことです。発語のまさにその時のリアリティを感じとることができるかどう
かはということは、現在生きて学んでいる我々の、何を学び取りたいのかという
「意識」にかかっているわけです。

ここに、心を沿わせる、という必要が出てきます。あらゆる迷妄を打ち破って初
心に立ち返り、初めて出会ったものとして存在そのものを見つめ直す姿勢。そこ
に言葉を発する時のリアリティがあります。言葉を発する時というよりも、言葉
を発する直前の何とも言えない感動、ここを表現しておきたいという強い思い。
それがそこ―古典には存在していて、我々はそこに心を沿わせていかなければな
らないのです。

「一」とは何か、というと、この存在そのもののことです。記憶している言葉に
よって物事を評価し・分析して・理解できたことにして満足するのではなく、存
在そのものへの驚きと畏れ、それと出会った時の感動に寄り添うということで
す。存在そのものに深く耳を傾けること。このことによってはじめて、言葉を発
するまさにその時の感動が私どもの中によみがえってきます。そこ。言葉の側で
はなく存在そのものの側に立ってそこに表現されている言葉を理解していく。こ
の姿勢を保つことが、一元流鍼灸術の「一」の視点に立つということです。

                       伴 尚志
■一をもってこれを貫く

一元流鍼灸術という名前の通り、一元流鍼灸術では一について学んでいます。気
一元の生命、その表現としてのさまざまな診断部位の再発見。そしてその位置の
個性にしたがったそれぞれの診断部位の特徴に基づいた診方。そしてより小さく
傾きが多く個性的な経穴診までを統一された考えかたでみていこうとしていま
す。

そのため、学び、診、感じとり、アプローチするということについて、これまで
語り続けているわけです。一の観点というのは、基礎から応用まで自在に対処し
ていくことのできる魔法の杖のようなものです。ただしこの杖を使うには条件が
あります。それは自分で感じ自分で考えるということです。この部分を誰かに頼
っているようではいつまでたっても応用自在の位置を得ることはできません。

産まれるということは父母の精が合体して一つとなることから始まります。これ
が生命の始まりです。死ぬということはその気一元の生命が陰陽に離乖するとい
うことです。この陰陽離乖の姿を、魂魄が分かれるとも表現します。肉体と精神
との分離ともいいますし、肉体と魂とが分かれることともいいますし、肉体から
魂が抜けるという表現をすることもあります。陰陽に分離する以前が生命がある
ときで、生きているときです。この生きているときに病気になります。ですから
死と生とはそのあり様がまったく異なるものです。統合されているものが生であ
り分離されているものが死であるともいえます。

一としてまとまっているときは生き、分離するときは死ぬ。この概念は経穴の状
態を見る経穴診や全身の状態を診る脉診も含めて、すべての診断法に応用するこ
とができます。


                   伴 尚志
■「一」シンプルイズベスト


一元流鍼灸術の基本のひとつはそのシンプルさにあります。このシンプルさの位
置はどこにあるのか、ということが問題となります。

なにをもってシンプルとするのか、ということです。

シンプルさと短絡とは違います。短絡というのは思いついたことにしがみついて
そこから物事の解釈を始めることです。シンプルさとは、問題の範疇を研究しつ
くしてその余分な贅肉をそぎとった果てにあるものです。

「動中に静あり」という言葉があります。軸がしっかりまっすぐに立っている駒
は、速い速度で回れば回るほどまるで動きがないかのようにすっきりと一点を保
って立ちます。この一点を保って立つということ、これが一元流の「一」の本体
です。

どのような研究の果てにも、この軸を逸れてはいけない、その位置が、一元流の
テキストの総論部分で示してあります。この一点、全体でもありゼロでもある地
点、これがこの上なく重要なものとなるわけです。

                     伴 尚志

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