■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』1/5
11月の勉強会で、胃の気の脈診について解説しました。その際、その内容が北辰
会におけるものとは異なると私が強調したため、北辰会ではどのようなものを胃
の気の脈診としているのか?という質問がありました。
私は北辰会と30年以上かかわっていないため、現在何をしているのかは実はよ
く知りません。この文章では、30年以上前に出版された北辰会の書物を書庫か
ら取り出してきて読み直し、それを基に考察してみました。
すると、その書物で表現されている北辰会の考え方と一元流鍼灸術の考え方の違
いの深刻さがよく理解できました。この文章は、その違いを再度明確にするとと
もに、胃の気の脈診の考え方に基づいて、一元流鍼灸術の考え方を研ぎ澄まして
いこうとするものです。
■藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸脈診法』概観
書庫から取り出してきた北辰会の書物というのは、藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸
脈診法』 ― 胃の気の脈診 ― 昭和59年3月15日第1版です。この古い書物が現
在の北辰会とどう関係しているのかは、わかりません。そのことを前提として考
察を進めています。
この書物に何が書かれているのかというと、北辰会の脈診法の紹介です。まず全
体を俯瞰していきましょう。この内容については後に論じていきます。
まず概論としてさまざまな古典が引用され、
・脈を診るとはどういうことか
・胃の気とはなにか
・胃の気と脈との関係
について解説されています。
さらに
・張景岳のいわゆる「弱以て滑」を胃の気の脈診の中心として、それを発展させ
る形で、弱以て滑が欠ける脈状全てを弦急脈と呼び、「諸々の脈状に弱以滑の脈
象が存在することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と
解」(48p)すると述べています。この概念を基にして、北辰会の脈診術が展開
されていくわけです。ここ重要です。
すなわち、
・弱以て滑が欠けている脈状をすなわち「弦急脈」と定義して、これを四種類に
分けて紹介し、 ・その分けられた四種類の「弦急脈」それぞれに名前を付けな
おし、それぞれの症例の紹介をしています。
つまり、ここでいう「弦急脈」というのは、「弱以て滑が欠けている脈状」すべ
てを指すものです。ですから、広い範囲の概念なわけです。実際に見ることので
きる脈状のことではありません。その「弦急脈」を四種類に分け、今度は実際に
見ることのできる脈状として解説しているわけです。
おまけとして、
・景岳全書の脈神章から十六脈(浮沈遅数洪微滑濇(しょく)弦芤(こう)緊虚
実)の紹介および中医学的解説をし、さらに北辰会的解説をしています。
・死脈として歴代伝えられている七死脈(雀啄(じゃくたく)・屋漏(おくろ
う)・弾石(だんせき)・解索(かいさく)・魚翔(ぎょしょう)・蝦遊(かゆ
う)・釜沸(ふふつ))の紹介および中医学的解説をし、さらに弱以て滑の観点
からの解説をしています。
そして最後にまとめとして
・脈診におけるこまごまとした実用的な注意点が述べられています。
本書の全体は、以上のような構成となっています。
それでは、その中身について、検討していきましょう。
伴 尚志
11月の勉強会で、胃の気の脈診について解説しました。その際、その内容が北辰
会におけるものとは異なると私が強調したため、北辰会ではどのようなものを胃
の気の脈診としているのか?という質問がありました。
私は北辰会と30年以上かかわっていないため、現在何をしているのかは実はよ
く知りません。この文章では、30年以上前に出版された北辰会の書物を書庫か
ら取り出してきて読み直し、それを基に考察してみました。
すると、その書物で表現されている北辰会の考え方と一元流鍼灸術の考え方の違
いの深刻さがよく理解できました。この文章は、その違いを再度明確にするとと
もに、胃の気の脈診の考え方に基づいて、一元流鍼灸術の考え方を研ぎ澄まして
いこうとするものです。
■藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸脈診法』概観
書庫から取り出してきた北辰会の書物というのは、藤本蓮風著『図解/簡明鍼灸
脈診法』 ― 胃の気の脈診 ― 昭和59年3月15日第1版です。この古い書物が現
在の北辰会とどう関係しているのかは、わかりません。そのことを前提として考
察を進めています。
この書物に何が書かれているのかというと、北辰会の脈診法の紹介です。まず全
体を俯瞰していきましょう。この内容については後に論じていきます。
まず概論としてさまざまな古典が引用され、
・脈を診るとはどういうことか
・胃の気とはなにか
・胃の気と脈との関係
について解説されています。
さらに
・張景岳のいわゆる「弱以て滑」を胃の気の脈診の中心として、それを発展させ
る形で、弱以て滑が欠ける脈状全てを弦急脈と呼び、「諸々の脈状に弱以滑の脈
象が存在することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と
解」(48p)すると述べています。この概念を基にして、北辰会の脈診術が展開
されていくわけです。ここ重要です。
すなわち、
・弱以て滑が欠けている脈状をすなわち「弦急脈」と定義して、これを四種類に
分けて紹介し、 ・その分けられた四種類の「弦急脈」それぞれに名前を付けな
おし、それぞれの症例の紹介をしています。
つまり、ここでいう「弦急脈」というのは、「弱以て滑が欠けている脈状」すべ
てを指すものです。ですから、広い範囲の概念なわけです。実際に見ることので
きる脈状のことではありません。その「弦急脈」を四種類に分け、今度は実際に
見ることのできる脈状として解説しているわけです。
おまけとして、
・景岳全書の脈神章から十六脈(浮沈遅数洪微滑濇(しょく)弦芤(こう)緊虚
実)の紹介および中医学的解説をし、さらに北辰会的解説をしています。
・死脈として歴代伝えられている七死脈(雀啄(じゃくたく)・屋漏(おくろ
う)・弾石(だんせき)・解索(かいさく)・魚翔(ぎょしょう)・蝦遊(かゆ
う)・釜沸(ふふつ))の紹介および中医学的解説をし、さらに弱以て滑の観点
からの解説をしています。
そして最後にまとめとして
・脈診におけるこまごまとした実用的な注意点が述べられています。
本書の全体は、以上のような構成となっています。
それでは、その中身について、検討していきましょう。
伴 尚志
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■気一元の観点から観る ―胃の気を眺める脉診術
書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じが
します。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決めそれに関連する症状と治
し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流
れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流
れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみて
ください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?
生きて動いている生命を眺めるということすなわち胃の気を眺めるということ
は、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を
一段高い位置に脱して、生命の動きを見るための道具へと深化させていくための
キーとなる概念です。
そのためこれを気一元の観点から観ると表現して、一元流鍼灸術では大切にして
いるわけです。
〔伴注:胃の気の脉診という言葉は同じなのですが、その内容は北辰会で語られ
ているものとはまったく異なりますので注意してください。言葉以前のもの―生
命そのものを意識してとらえること。これを胃の気の脉診と呼んでいます。〕
伴 尚志
書物を読んで勉強していると生命力が「ある位置」で固まっているような感じが
します。そのため、ある脉状を掴まえてその名前を決めそれに関連する症状と治
し方を決めていこうとしたりするわけです。これはまるで、滔々と流れる川の流
れの中の小さな渦に名前をつけて、その渦の位置と深さと強さとによって川の流
れを調整する鍼の立て方を決めようとしているようなものです。よく考えてみて
ください。これはあまりにも現実離れしているとは思いませんか?
生きて動いている生命を眺めるということすなわち胃の気を眺めるということ
は、カテゴリー分けするための道具の位置にすぎなかった陰陽五行論の使い方を
一段高い位置に脱して、生命の動きを見るための道具へと深化させていくための
キーとなる概念です。
そのためこれを気一元の観点から観ると表現して、一元流鍼灸術では大切にして
いるわけです。
〔伴注:胃の気の脉診という言葉は同じなのですが、その内容は北辰会で語られ
ているものとはまったく異なりますので注意してください。言葉以前のもの―生
命そのものを意識してとらえること。これを胃の気の脉診と呼んでいます。〕
伴 尚志
■生命力の変化を見るのが脉診
そのような脉診を少なくとも治療前と治療後にやり続けてきて徐々に理解してきたことは、実はそれよりも大きな脉の診方があるということでした。それは脉を診ることを通じて、「生命力の変化を診ている」のだということです。脉診を通じてみる生命力の変化は一瞬にして大々的に変わることもありますし、微妙な変化しかしないこともあります。それは患者さんの体調にもよりますし治療の適否による場合もあります。細かく診ているだけでは表現しようのない大きな生命力の動きのことをおそらく古人も気がついていて、これを胃の気の脉と呼んだのだろうと思います。
胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。そしてそれはアナログ的な流れの変化のように起こります。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良いかより悪いかしか実はないわけです。良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。
胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。
このことが何を意味しているのかというとを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのかという観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。
このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを診る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を診るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となったわけです。
伴 尚志
そのような脉診を少なくとも治療前と治療後にやり続けてきて徐々に理解してきたことは、実はそれよりも大きな脉の診方があるということでした。それは脉を診ることを通じて、「生命力の変化を診ている」のだということです。脉診を通じてみる生命力の変化は一瞬にして大々的に変わることもありますし、微妙な変化しかしないこともあります。それは患者さんの体調にもよりますし治療の適否による場合もあります。細かく診ているだけでは表現しようのない大きな生命力の動きのことをおそらく古人も気がついていて、これを胃の気の脉と呼んだのだろうと思います。
胃の気の大きな変化こそ、脉診において中心として把握すべきものです。これは生命力の大きなうねりなのですから。そしてそれはアナログ的な流れの変化のように起こります。ですから、何という名前の脉状が胃の気が通っている脉状であると表現することはできません。より良いかより悪いかしか実はないわけです。良い脉状にはしかし目標はあります。それは、いわゆる12歳頃の健康な少年の脉状です。楊柳のようにしなやかで、拘わり滞留することがなく、輪郭が明瞭でつややかな脉状。寸関尺の浮位においても沈位においても脉力の差がなく、ざらつきもなく華美でもないしなやかで柔らかな生命の脉状。これが胃の気のもっとも充実している脉の状態です。
胃の気が少し弱るとさまざまな表情がまた出てきます。千変万化するわけです。脉位による差も出てくるでしょうし、脉圧による差も出てくるでしょう。脉状にもさまざまな違いが出てきて統一感がなくなります。輪郭も甘くなったり堅く弦を帯びたり反対に何とも言えない粘ったような柔らかい脉状を呈するようになるかもしれません。
このことが何を意味しているのかというとを、歴代の脉書は伝えていますけれども、そこに大きな意味はありません。ましてそれぞれの脉状に対して症状や証をあてるなど意味のないことです。そんなことよりもよりよい脉状に持って行くにはどうすればよいのかという観点から治療方針を定めていくことの方が、はるかに重要です。
このようにして、陰陽五行によるカテゴリー分けにすぎなかった脉状診から、生命そのものを診る胃の気の脉診法が生まれました。そしてこの胃の気の脉を診るということへの気づきが、それまでの陰陽五行論を大きく発展させました。それが、気一元の場を、陰陽という観点 五行という観点から眺める、という一元流鍼灸術独自の陰陽五行論となったわけです。
伴 尚志
■陰陽五行で脉を診る
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、
五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということ
から学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れると
いうことは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強く
なりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということ
が病むということであり、バランスを回復させることが治すということであると
考えていました。自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽
五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を取ることを用いて、この段階について解説してみましょう。
脉というものはぼやっと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに
見ていると見えないものであるとも言えます。何かの目標を持つことによって、
見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。寸関尺の脉位
によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定めていくもの
です。一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、そ
の中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりとみることも
できていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんな
ものはナンセンスです。先ず見ること。そこに言葉にする以前のすべてがありま
す。見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てく
るものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその
実態をつかんでいなければいけないということです。このようにいうと当たり前
のことですけれども、それができていないのが現状ですので何度も述べているわ
けです。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきま
す。これを左関上の沈位が弦緊で右の尺中が浮にして弾、などという表現となっ
て漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということで
す。寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見て
ここが他の部位よりも困窮しているように見ているものです。濡弱とか弦緊とか
表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状をバ
ランスよく見ているものです。
伴 尚志
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、
五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということ
から学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れると
いうことは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強く
なりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということ
が病むということであり、バランスを回復させることが治すということであると
考えていました。自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽
五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を取ることを用いて、この段階について解説してみましょう。
脉というものはぼやっと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに
見ていると見えないものであるとも言えます。何かの目標を持つことによって、
見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。寸関尺の脉位
によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定めていくもの
です。一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、そ
の中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりとみることも
できていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんな
ものはナンセンスです。先ず見ること。そこに言葉にする以前のすべてがありま
す。見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てく
るものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその
実態をつかんでいなければいけないということです。このようにいうと当たり前
のことですけれども、それができていないのが現状ですので何度も述べているわ
けです。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきま
す。これを左関上の沈位が弦緊で右の尺中が浮にして弾、などという表現となっ
て漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということで
す。寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見て
ここが他の部位よりも困窮しているように見ているものです。濡弱とか弦緊とか
表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状をバ
ランスよく見ているものです。
伴 尚志