fc2ブログ

一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』5/5


■生命がなければ病はない


生命がなければ病はありません。すなわち、生きてさえいればいついかなる時に
も生命力はあります。そして、その時々の生命力の状態を探ろうとするものが、
一元流鍼灸術における「胃の気の脈診」であり治療方針の立て方です。そこに
は、個別具体的な脈状―個別具体的な生命状態が存在するだけであって、「胃の
気の脈が欠けた状態」があるわけではありません。

これはさながら、海の波が起こる地点を小さく区切ってタイプ別に分類すること
が無意味なようなものです。波は、岩や風や気圧などの相互関係によって、ただ
起こるだけです。臨床家は、患者さんの生命力をさながら浜辺で海の波を眺める
ように眺めているだけなのです。そこに竿を差し込みあるいは石を投げ込むこと
によって、生命力の変化を眺めていく、これが鍼灸師、養生治療家の行っている
ことです。

この胃の気の概念、生命力の概念について気づいていたと思われる藤本氏がな
ぜ、細かい脈状を分類し、さらにはそれに基づいた「症例」をあげることになっ
ていったのでしょうか。


実はここには、東西古今を問わず「医学」そのものにおける、大きな課題があり
ます。それは、「疾医が養生医か」「病を治療するのか。生命を整えるのか」
「症状を目標とするのか、生命力のバランスを整え、それを通じて生命力を充実
させていくことを目標とするのか」という課題です。

鍼灸が養生医学といわれる東洋医学を踏襲するかぎり、生命を整え、生命力を目
標とすることは当然のことといえるでしょう。

しかし現実には患者さんの苦痛を取ることが近視眼的な目標となっているため、
「治してあげよう」「症状を取ってあげよう」という言葉を用い、なんでも「治
せる」治療家として、自己の名を高め集客を図ろうとする姿勢が存在することと
なります。

現代医学ではことに顕著になっているこの、症状を治療目的とした「波頭の分
類」は、東洋医学の歴史の中にも実はすでに古い時代からありました。それは、
医学の発祥由来であるともいえます。

張景岳は、「そもそも胃気は正気であり、病気は邪気である、邪気と正気とは本
来両立しないものなので、どちらかが勝てばどちらかが負けるからである。すな
わち邪気が勝てば正気が敗れ、正気が充実してくれば邪気がしりぞくからであ
る。」(『現代語訳 景岳全書 脉神章』 伴 尚志訳 たにぐち書店刊96p)
と述べています。藤本氏もこの『図解/簡明鍼灸脈診法』を著述した当時も、そ
れを継いでいるものであったと言えるのでしょう。書かれているさまざまな著書
を通じて今も、その同じ香りがしてきます。

しかし、邪気と正気すなわち、症状と生命力とは陰陽関係にはありません。生命
力は太陽のように大きく生命そのものを支えるものです。症状とは、その生命の
陰翳として出ては消えているものです。一元流鍼灸術が生命がなければ病はない
と考え、生命力のバランスを整え、それを通じて生命力を充実させていくことこ
そが治療の目標であると考えていることは、至極当然のことと言えるのではない
でしょうか。その大きな視点から生命力を調整していくことを通じて、さまざま
な症状を同時に呈しているひとであっても、あるいは、症状という自覚はなくと
もその生命力のバランスを取り充実させていくことによって、病が起こる以前に
病が起こらないように整えていくことが可能になるのです。これがまさに、養生
治療という発想となっていくわけです。

胃の気の脈診はそのような、養生治療をしていくさいに、大きな指針となるわけ
です。


生命があるから病があります。生命がなければ病むということはありません。完
全に健康な生命というものはありません。死は必ず、どのような人にも訪れま
す。

胃の気があるからこそ、弦急の脈も搏つことができます。それは、生命そのもの
(胃の気)とその表現の一部(症状)のような関係であって、それぞれが補完し
合う対等の陰陽関係ではありません。

養生とは何かというと、生命を磨くということです。完全な生命はありません
が、よりよい生命状態を求めることはできます。そのために、今の状態から少し
づつ自分にとってより良い状態へと生命のあり方を磨いていくわけです。食養生
をして内臓を休める。運動をして筋肉をつける。日々感謝して心を養う。養生治
療を受ける。このようにして生命の状態を整え、磨いていくということが養生を
するということです。しかし 完全な 養生はありませんし、完全な 生命状態と
いうものもありません。これは大きな眼差しから見るならば、今ここにおける不
完全な自分の状態こそが、まさにこの上なく完全な私の状態である、これ以上な
い生命状態にあるということです。その今を前提として、より完成度を高めるた
めに、日々の生命を磨いていくわけです。

今を生きるということは、今の「不完全さという完全」な生命状態のまま、日々
を生きるということです。養生は、生命状態をより良い状態にするということで
あり、その生命を使ってどのような人生を送るのかということはまた、別の問題
となります。なぜ生きるのか、いかにして生きるのかということは、個々人に任
されています。そうやって 、私たちは日々、 この生命の世界を生き続けている
わけです。

伴 尚志
スポンサーサイト



■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』4/5
■北辰会における四種の弦急脈



言語化すると、それが存在すると思い 、それを探し始めてしまいます。東洋医
学の歴史はその積み重ねとなっています。真偽を見分けることの難しい、繊細な
手作業をおこなう治療家に植え付けられた信仰、ともこれは言えます。

また、見ることと言語化することの間には、大きな隔たりがあります。実際に見
ている指先の風景を言語化していくわけですから、そこには大きく深い問題が横
たわっているということが理解されなければなりません。

・指尖の感覚は個人個人で異なる。感覚とは何でしょうか。
・指尖の敏感さや鈍感さは個人個人で、体調によっても異なる。
・とらえたものを表現することのできる、表現力は個人個人で異なる。
・とらえようとする方向によって、表現できるおおもとのとらえ方が異なる。
・指尖の風景の中から、何を取り出そうとしているのか、そこが問題。
・「自分が正しい」と断ずると、自分以外のものが見えなくなる。

思いつくまま簡単に挙げてみても、これだけ多くの課題があります。
「見る、そしてそれを表現する」ということは、たいへんな事なのです。

しかし藤本氏は、その危険を知ってか知らずか、やすやすと乗り越えて、胃の気
が欠けているとした脈状を四脈に分けて解説し始めます。

四種の弦急脈の実際の記述は、以下のとおりです。
49ページから掲げられています。

第一脈・弦急脈:「和緩と滑利がなく、硬く引きつった感じで、ギシギシと指に
触れる。」「硬く緊張した脈であり、力の有無は一応関係ない」(49p)

第二脈(枯脈):「第一脈のように、引きつったり著しく堅くはないが、潤いが
なく、しなやかさや、和緩に乏しく、ちょうど、ひからびた餅の表面に触れた感
じでカサカサしている。」「この脈は、弦脈と重なることも多く、この場合は
「枯弦」と呼称する。

第三脈(細急脈)「一定の緩滑の脈状の中に、一筋の細い芯のある弦脈を打つも
の」

第四脈(緩不足、滑不足)

ここで4種類に分けられている、藤本氏が述べる弦急脈は、「弱以滑」と分けら
れた「弦急脈という概念」ではなく、実際に脈に触れた指尖の触覚に基づくもの
のようです。



■弦急脈は邪気か?敵するものなのか?


胃の気の脈状について以前、藤本氏は「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、
脈状に現われる」と解説していましたが、ここではその、土台である胃の気の脈
状が、「欠けている!」ものも存在するとしているわけです。

はて。藤本氏は自身の言葉で、「諸々の脈状に弱以滑の脈象の存在することが、
平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と解した」(49p)と述べ
ています。そのうえでその弦急脈を四種類に分類しているわけです。

さらに藤本氏は、同じページで、この4つに類型された「弦急脈をかみ分け触知
できれば、本書での核心部分「胃の気の脈診」が全うされる。実に、弦急脈を把
握することに全力をかたむけねばならない。弦急脈とは、先にも述べたように、
要するに「弱以滑」を含まない脈状、脈形を指す。」としているわけです。ここ
に、冒頭で自身が述べていた「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、脈状に現
われる」という、老子的な「胃の気の脈診法」の生命観を、自身の言葉で裏切っ
ているわけです。弦急脈を語るときにはこの、脈状を表現する土台―胃の気が消
えるというのでしょうか。


ここにおいて私は、一元流鍼灸術で話している「胃の気の脈診」と、上段で定義
づけられている北辰会における「胃の気の脈診」とは、まったく異なるものであ
ると言わなければなりません。一元流鍼灸術で述べている「胃の気の脈診」はま
さに、気一元の生命力の流れの変化をありのままにとらえ表現することを基礎と
した、老子的な「胃の気の脈診」だったわけです。

伴 尚志
■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』3/5
■弱以滑と弦急脈とは相反するものなのか


藤本氏は、明代末期の医家、張景岳が表現した胃の気の脈「弱以滑」を胃の気の
脈の中心にすえ、「弱以滑のない脈状」を弦急脈と名づけてそれを四種類に分
け、北辰会の診脈法としています。

その理由として藤本氏は臨床の実際として、「諸々の脈状に弱以滑の脈象の存在
することが、平人であり、これに反するものは、すべて弦急の脈、と解したので
ある。それ故、この弦急脈は、4つに分つものであることが判明した。」
(49p)と述べています。

ここでいう弦急脈とは、診ることのできる弦急脈ではなく、弱以滑の欠けている
脈状すべてのことを指していることに注意する必要があります。いわゆる一つの
上位概念―抽象的な概念なわけです。

藤本氏はまた、この「弱以滑」の脈状についても、抽象的な概念として捉えてい
る可能性があります。そのためでしょうか、「諸々の脈状に弱以滑の脈象が存在
することが、平人」と述べています。いわば、弱以滑という脈状および弦急の脈
という脉状を、対抗する概念、相入れない概念として提示し、その根拠として、
明代の偉大な医学者である張景岳の言葉と、自身のグループにおける臨床的実際
を上げているわけです。


皆さんはこの矛盾を、理解することができるでしょうか。

一方で藤本氏は、「胃の気をこそ土台にして、諸々の情報が、脈状に現われる」
と述べています。つまり、諸々の脈状の情報はすべて、胃の気を土台にしている
と述べているわけです。ところがそれに対して藤本氏は、平人と病者とを対応さ
せ、「弱以滑の脈象が存在する平人」であるとし、これに「反するもの」をすべ
て弦急の脈という病者の持つ脉状の概念にしているわけです。

「生きとし生けるものの実相は、やわらかく、しなやかで、生き活きとしている
が、死に赴き枯れるものは、堅くもろいものである。」と藤本氏は述べていま
す。けれども、生きるものはみな死にます。死に赴かない生は存在しません。こ
のことを知るならば、生とその中にあってさまざまな症状を呈する人の、生と症
状あるいは病は、対立する別々のものではありません。ともに、ひとつの生命の
流れ変化していく過程で現れる「生命力の表現」でしかないのです。

すなわち、「生きているかぎりすべての生は存在している」わけです。生き活き
としていようが、死に赴き枯れる方向にあろうが、それは生命力の変化過程―バ
イオリズムの途上なのです。生の方向に一方向に進む「生」はありません。同じ
ように死の方向に一方向に進む「生」もありません。人は、疲れたり、元気を回
復したりしながら、ゆるやかに生のバイオリズムを浮き沈みしながら、生きてい
るものなのです。

その間、さまざまな症状を呈すこともあり、なんらかの疾病の名前を与えられ、
あるいは難病に分類されることもあります。「疾病は生命力の表現である」と言
えるわけです。

藤本氏も実は自身の言葉で述べています。「脈診するということは、胃の気の多
彩な’顔’盛衰を察知することにこそ、その本領があった」(26p)と。

氏はなぜ、生と病とを、平人の弱以滑の脈と弦急脈とを「あい反するもの」とし
て括ってしまったのでしょうか。たいへん残念に思います。


「疾病は生命力の表現である」ということ。これがすなわち、一元流鍼灸術にお
ける脈診の考え方の基礎となっています。まさに「胃の気の多彩な’顔’盛衰を察
知すること」。これこそが一元流鍼灸術における「生命を診る脈診」の基礎とな
っているわけです。すべての生命の変化相、変化の形が脈に表れている。その生
命の姿の一過程として「弦急脈」をもとらえなければらないと考えているわけで
す。

すなわち、藤本氏が指定する「弦急脈」を呈する病も実は、生命の一形態です。
生命に反して病があるのではなく、病も生命の一形態なわけですから、あたりま
えのことです。生命に反して病があるわけではない。生命があるからこそ病があ
るわけです。ここがとても大切なところです。

脈状で言い換えるならば、胃の気の脈がない、ということは生きている限りあり
えません。生きていれば脈のすべてが胃の気の脈の一変化なのですから。

脈診を通じて捉えることのできるいわゆる堅い脈状である弦脈や弦急脈というも
のも、胃の気―生命力の、変化したものです。そのため、堅い脈状である弦脈や
弦急脈は、頑張っている、頑張ることのできている脈状であると表現することも
できるのではないかと、一元流鍼灸術では考えています。

七死脈と言われている脈状も実は、生命力があるからこそ表現することができ、
診ることができる脈状です。生命力の中心が本当に弱ってしまえば、七死脈とし
て表現することもできなくなります。それこそが藤本氏もいう(119p)、神の脱
けた脈状です。六部定位の整った、あたかも胃の気がしっかりしているように見
える脈状。良い脈状に見えるものを搏つのです。死に瀕しているような患者さん
に現れる、そのような脈状こそが、胃の気の脱けた脉状です。そこからさらに神
が脱けきると、脈は搏つことを静かに止め、呼吸も止まることになります。死に
抵抗して生命が暴れあるいは苦しんで、七死脈のような極端な脈状を呈するよう
なこともなく、ただ死んでいくだけなのです。

さて、藤本氏の「諸々の脈状に弱以滑の脈象の存在することが、平人であり、こ
れに反するものは、すべて弦急の脈、と解したのである。それ故、この弦急脈
は、4つに分つものであることが判明した。」(49p)と述べている、この言葉
が、いかに大きな問題をはらんでいるかということは、ここまでの私の話でご理
解いただけたのではないでしょうか。

伴 尚志
■胃の気の脈診『図解/簡明鍼灸脈診法』2/5

■古典における「胃の気の脈診」


はじめに古典を紹介したうえで、伝統的に言われている胃の気の脈について、
1四時陰陽に従う脈
2名状もってするに難しき脈
3有力無力による脈
4一定の恒常性の有無を診る脈
5胃の腑の働きを直接候う脈
6中位にあらわれる脈
7衝和と弦急の脈
とそのまままとめています。古典の文言をそのまま訳し解説しているものです。
いわば古典の紹介ですね。



■「胃の気の脈診法」の生命観


次に藤本氏が自身の「胃の気の脈診法」に包含されている生命観について述べて
います。一元流鍼灸術の生命観にも通底する、大切なところです。

すなわち、
「胃の気をこそ土台にして諸々の情報が、脈状に現われることをすでに学習し
た。また、脈とは、胃の気そのものであることも我々は知ったのである。脈が
刻々と不断に変化することも、畢竟、胃の気(生命力)が様々な環境と影響に出
合い。個体維持の目的性にそうべく適応する多面的な”顔”であったのであ
る。・・・(中略)・・・脈診するということは、胃の気の多彩な”顏”盛衰を察
知することにこそ、その本領があったのである。」(26p)

この文章たいへん重要です。何回も繰り返し読み、しっかり理解していきたいと
ころです。

一言で言うなら、「脈診には生命力の状態がそのまま表れる」ということです。
生命力は、身心の内部状況です。生き物の内部状況は刻々と変化します。この
刻々と変化する内部状況が、刻々と変化する外部状況と出会うことによって、さ
らにさまざまな変化が起きていきます。

脈診には、このようなダイナミックに変化する生命力の内部状態が表現されてい
るわけです。ですから脈診においては、「生命力」すなわち胃の気、をまずは意
識して診なければなりません。胃の気の状況という場―舞台上に、個々の脈象が
表現されているということが、理解されなければならないわけです。

そしてさらに、胃の気の脈診の生命論として『老子』をとりあげ、「生きとし生
けるものの実相は、やわらかく、しなやかで、生き活きとしているが、死に赴き
枯れるものは、堅くもろいものである、と。「伴注:『老子』には」生命の実体
を直感的に記述している。」(29p)として、「胃の気の脈診法はこのような生
命論に基づくものであることに気づかねばならない」(同ページ)と藤本氏は語
ります。

生命とはなにか。あるがままの生命を表現しているものとして脈を診ること。こ
れが胃の気の脈診であるということ。まさに「脈診するということは、胃の気の
多彩な’顔’盛衰を察知することにこそ、その本領があった」(26p)と、藤本氏
は考えられています。脈が刻々と不断に変化することは、まさに胃の気の表れ―
生命力の表現であると。非常に雄大でダイナミックで自由な脈のとらえ方であ
る、と言えるでしょう。

ところが藤本氏は自身の腕力でその胃の気の世界―生命の世界を破壊していきま
す。


    伴 尚志

この人とブロともになる