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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

木村敏は、2021年に他界されているということです。
ご冥福を祈り、学恩に感謝を捧げます。
テキスト「生命の医学に向けて」に引用されている文章は以下の通りです。

■「生命のかたち、かたちの生命」

「すでに形成されて完了形でとらえられるようなかたちが「客観的時間」と呼ば
れる観念的な「次元」の中に定位されるのに対して、つねに生成の途上にある生
きたかたちは、それ自身とともに生命的時間を生み出す。かたちの生成する「い
まここ」で「現在が現在自身を限定」し、アクチュアルな時間としての現在が生
成する。現在の一瞬にほとばしっている時間とは、実は生命そのもののことであ
る。それは外界の三次元につけ加わるような第四の「次元」などではない。物理
の世界に時間はない。変化はあったとしても、時間は存在しない。太陽が西の空
に沈んで一日という時間がたち、時計の針が一目盛り動いて一分という時間が進
んだと思うのは、それを一人の生きた、そして死すべき人間が見ているからであ
る。人間に死ぬということがないならば、つまり人間が生きているのでないなら
ば、時間ということはありえない。変化を時間の相のもとに見るということもあ
りえない。死の欲動、それは時間のことである。わたしたちを欲望させるもの、
わたしたちに世界を享受させてくれるもの、わたしたちに死の恐怖をいだかせる
ものとしての時間、生命のかたち、かたちの生命、この「の」のところにのみ、
そんな時間が流れている。」(木村敏著「生命のかたち/かたちの生命」229
p:2005年第一刷)

この言葉には、たいへん多くの示唆が含まれています。そしてさまざまな概念の
「種子」が含まれています。木村敏にしてみれば、その深い考察と人生を捧げた
精神病理学という医学哲学の精華が込められているわけです。含蓄の深い、至宝
の言葉であると思います。

この全文は実は、「いまここ」における時間、無限の一瞬の生命の時間について
解説しているものです。「つねに生成の途上にある生きたかたちは、それ自身と
ともに生命的時間を生み出す。かたちの生成する「いまここ」で「現在が現在自
身を限定」し、アクチュアルな時間としての現在が生成する。現在の一瞬にほと
ばしっている時間とは、実は生命そのもののことである。」

生命とかたちをむすんでいる「の」という言葉は、この生命そのものが表出され
ている「いま」と、その生命が取っている「かたち」との、一体不可分な「いま
ここ」の結びつきを表現しているものです。ですから逆に言えば、実際として
は、生命というものはない。かたちというものはない。この「の」で表現されて
いる「むすび」漢字で書くと「産靈」しかないということを表現されているわけ
です。

そこに流れている時間があるように読めますけれども実はこれはまさに、「いま
ここ」でかたちを通した生命によって生成されているほとばしるように輝く生命
そのものの「不連続の連続」です。「不連続」というのは、「いま」を際立たせ
るために使っている言葉です。「連続」というのは、記憶がなければ起こりませ
んので、「いま」に比すればその新鮮さが劣ります。輝きが喪失します。けれど
もその連続性を感じとることによって、音楽や文章の流れを理解することができ
ます。そのことから、この「いま」の中には実は、未来も過去も含まれていると
いうことが理解できます。

このような生命に触れることを、実は臨床家はしているわけですね。そのことを
語りたくて私は論文「生命の医学に向けて」の冒頭にこの木村敏の言葉をもって
きたのでした。

                 伴 尚志
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■伴 尚志の黄老道研究論文


「黄老道から日本医学へ 」
http://1gen.jp/1GEN/KOUROU/

この年表のなかの、後漢に、太平道(たいへいどう)と五斗米道(ごとべいど
う)という初期道教について触れています。于吉(うきつ)はそ初期道教の元に
なった文献を作成した人です。この初期道教にはしかし、修行体系や体系的な理
論などがなかったため、現代の道経研究者の間では宗教とは認められていませ
ん。理論体系や修行体系を備えた道教がはじまったのは、四世紀ころに成立した
茅山(ぼうさん)宗からであると考えられています。この茅山宗を作ったのは、
本草家としても有名な陶弘景(とうこうけい456年~536年)でした。

讖緯(しんい)学説における五行論が儒教の春秋学を起源とし、春秋学が戦国時
代末期の鄒衍(すうえん)を起源とすると考えられます。このことを、占筮(う
らない)に向けて堕落した儒教思想が讖緯学説であり初期道教であるという風に
言いかえることもできるでしょう。後世、儒教と道教とは対立関係にあるまった
く別の学派―宗教のように捉えられていますが、その根をたどれば実は同じもの
なのですね。

老荘思想(老子や荘子の思想)は黄老道に深い影響を与えています。けれども、
上記した通り黄老道と道教とはまったく異なるものです。道教における諸技法
(呪術や護符)と老荘思想との関連はありません。そしてこの黄老道の果実が
『黄帝内経』であるということは、東洋医学者としてはしっかりおさえておくべ
きことであると思います。

               伴 尚志
推薦図書「道教とはなにか」坂出祥伸著

      「気の宗教」道教こそ、中国を理解するための鍵である

坂出祥伸著 中央公論新社刊 中公叢書 1,800円 2005年 初版発行

「発生当時の道教、すなわち太平道や五斗米道などは、呪術治療によって多くの
信仰者を獲得しながら教勢を拡大したのであり、けっして当初から教理や教典が
あって信仰が確立したわけではない。道教の教理教典は、当時浸透しつつあった
仏教への対抗上、仏教の教理や教典を模倣して作成されたのであり、儀礼も同様
に仏教を模倣したのである。天帝に代わって老子が救済の神格として登場するの
も、一種の権威づけだと思われる。仏寺に相当する宮廟や道観もまた仏教の模倣
であろう。」(7p)と冒頭で道教についての概論を坂出氏は述べています。

後漢末期の混乱期に反権力的宗教組織である道教は、老子を神としているもの
の、老荘思想とはまったく別次元のものです。本書ではその基本が明確に説かれ
ています。

また第七章では「道教と医薬」と題して黄帝内経の身体観および内景図にまで触
れられています。「たしかに、西洋医学は身体の故障しか考えていない。しかし
漢方医学では身体の全体を、さらに心をも診るのである。漢方医学は、正しくは
黄帝内経医学と呼ぶ。それは鍼灸医学である。鍼灸では五臓のバランスが重視さ
れる。黄帝内経医学=鍼灸医学のめざすのは、養生つまり予防医学である。」
(185p)と明らかにされています。

このほかにも本書は、道教ができる以前、支那大陸にあった咒術や仙道および医
薬について触れ、さらに歴代の道教の特徴、内丹外丹、全真教の問題。および古
代日本との交流。現代の道教状況について網羅的に述べています。これまでこれ
ほどまとまった道教書はなかったのではないでしょうか。

小さな書物ではありますが非常に盛りだくさん。教科書的な明瞭な視点を提供し
てくれるものであると推薦いたします。


伴 尚志
■坂出祥伸先生の気の概念と伴 尚志のコメント4

■第五に、「気」の循環的変化は近代科学のように因果律による説明ではなく、
感応作用に基づいている、と説明される。『周易』という儒教の経典に対する唐
時代、七世紀の学者・孔穎達(くようだつ)の注釈に、感応の概念が明確に説明
されている。「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気類に従っ
ている」「感とは動くということ、応とは、その報いである。すべて先になるの
が感で、後のものは応である」と。

〔伴注:
因果律と感応作用の違いがわかりにくいかと思います。孔穎達の「感とは動くと
いうこと、応とは、その報いである。すべて先になるのが感で、後のものは応で
ある」という解説はまさに仏教的な因果の世界を想起させます。

孔穎達のもう一つの言「天地の間にあるものは、共に相感応し、おのおのその気
類に従っている」というのは、リアリティーが乏しいものです。スウェーデンに
生まれた天才的な霊能者であるスウェルデンボルグによるとこれは、死後の世界
の説明です。生前の世界はこれが雑然と影響し合っているだけであり、感応にも
濃淡があるということが理解できます。感応の濃淡というところに、生きている
ことのおもしろさ、ダイナミックさがあるわけです。

《易》は占筮の書ですから、鬼神と「感応する」ということを前提として言葉が
展開されています。論理で考え尽くすのではなく、感応してその響きを見いだ
す、そのような読み方をするわけです。敏感によく感応するところは美しいと感
じ、鈍感で感応が弱いところは醜いと感じます。いわゆる因果律にはこの美醜の
感覚はなく、論理的な思考がそれを超えて存在していることとなります。私は、
因果律よりも美醜の感覚の方が美しいと感じます。そこにおける感応は、拍手の
音のようなものです。左手で叩くのか右手で叩くのかと、分けることはできませ
ん。一瞬で鳴り響き、感取されるものです。美醜の感覚というのはそういうもの
です。理屈で考えるようなものではありません。私は言葉や論理以前のこの感応
と、それに基づいた美醜を尊重します。

《易》の中孚〔注:(ちゅうふ)内なる誠〕には有名な言葉が著されています。
『鳴鶴(めいかく)陰にあり、〔注:日陰で鶴が鳴き〕その子これに和す。
〔注:その子がこれに和して鳴く声がする。〕我れに好爵〔注:よしみを結ぶ
杯:美しい心:天命にかなった目的〕あり。吾れ爾(なんじ)とこれをともにせ
ん。』なんという美しい言葉、麗しい情景でしょうか。

また《易》の下経の冒頭には、咸〔注:感:無心の感応であるため咸という文字
を用います〕の卦が置かれています。これは、上経が万物の創始者である天地
(乾坤)から始まったのに対して、下経を人倫の発端である感応から始めたもの
であると言われています。感応というのは時間経過や理屈が入り込む以前の、響
きを感じ取る心の動きのことを表現しているものです。

どうすればこの感応の世界に十分に浸ることができるのでしょうか、感じ取るこ
とができるようになるのでしょうか。このあたりの心の位置について『私心が全
くなくなれば、ひろびろとした万物感通の境地が開ける。』と《易・繋辞伝》で
は述べられています。

『易』は、鬼神との大いなる感応の書です。この書物を言葉の解釈を通じた理屈
で考えていくならば、『易』の外殻にも触れることはできません。どのように解
釈本を読もうとも、何も理解できずに終わってしまうことでしょう。言葉を超え
た感応の世界へと、足を踏み出さなければ、読んでも読めず、見てもまったく見
ていない状態のまま人生の時間を徒労することとなります。

さて、あなたはここで自らに問う必要があります。ひろびろとした万物感通の境
地が開けることを碍(さまた)げる「私心」とは、はたしてなんなのでしょう
か。



伴 尚志

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