真理はここにあると指さす、その指が古典である。
人は、不安の中に生きているので、思わずその指に飛びついて、真理はここにあると語り継いでしまう。真理はここにあると、指さされているものこそが大切なのに、指に飛びつくのである。指は形になっているので飛びつきやすいから。
そして、真理はここにあると指さしている指の指し方に興味を引くものが現れる。彼は語る、「本当の指さし方はこのように、右から左に大きく流すようにして、ぴたっと位置を決めて指すものだと。古人もそのように指さすことによってこの真理をつかんだのである」と。
そのようにして、真理を指さす、指さし方が定められた。その際には大いなる会議までもたれて、賢者たちが侃々諤々の大議論を行ったということである。
あるものは左から右に指さすべきだといい、そこには陰陽の理があると根拠づけた。
あるものは天地の関係の中から天上をまず指さした後に、大きく振りかぶるようにすること。それこそがここにある真理を指さすべきであると述べた。
あるものは、真理というのは変化するものであるのだから指さす場合にもその指は止めるべきではなく動き続けているものでなければならないとした。そのようにして真理を踊る踊りが披露されることとなった。彼は「動きの中にこそ真理がある」と、その指の動きを定義づけ、無駄のない動きについての研究を続けることとなった。
このようにして、膨大な真理の「指さし方の研究」が何千年にもわたって行われ、古典として積み重ねられた。先人の知恵と呼ばれるそれらは、偉大なる古典の集積として崇められた。勉強家の古人の中には、その「指さし方」の書物を副葬品として埋葬させたものまでいた。
21世紀の現在、彼の墓が発掘されてその埋葬物が出ることとなった。偉大なる古典の原典が出現したと大いに「指さし方」の学会を湧かせることとなった。「指さし方」の原典が判明した!と。
真理はその隣でいつ僕を見てくれるのだろうとじっと待ち続けた。けれども、学会はそれどころではなかった。なにせ、世紀の発見がそこにあるのだから、真理なんてかまってはいられない。
輝ける真理、生命そのものがここにある。それにもかかわらず、生命そのものを見ることをせず、その真理の横でまるで真理から目をそらすように指さし方の研究に励んでいるのはなぜなのだろう。
これは、最初に真理はここにあると指さしたものの罪なのだろうか。それとも賢人と呼ばれた人々の愚かさによるものなのだろうか。
ある人は、仏典が積み上げられなければ釈迦の悟りは伝わらなかったと語った。仏典が伝わらなければ仏教は伝来していないと信じているらしい。仏典がなければ真理はなかったのか?それなら釈迦は決して真理に到達することはなかっただろう。なぜなら、釈迦が生きていた時には仏典など存在していなかったのだから。
真理が見つけられたと伝えられた時、無上の覚りがこの人生の中にあると伝えられた時、あなたはどうするだろう。その言葉を聞きにいくのか。またその指さし方を眺めにそこに行くのだろうか。
私は違う。そのような迷妄はもう、まっぴらごめんだ。
私はここにいる。これが真理だ。私は私(の般若波羅密多)を探求しつづける。それ以外に真理は存在しない。
人は、不安の中に生きているので、思わずその指に飛びついて、真理はここにあると語り継いでしまう。真理はここにあると、指さされているものこそが大切なのに、指に飛びつくのである。指は形になっているので飛びつきやすいから。
そして、真理はここにあると指さしている指の指し方に興味を引くものが現れる。彼は語る、「本当の指さし方はこのように、右から左に大きく流すようにして、ぴたっと位置を決めて指すものだと。古人もそのように指さすことによってこの真理をつかんだのである」と。
そのようにして、真理を指さす、指さし方が定められた。その際には大いなる会議までもたれて、賢者たちが侃々諤々の大議論を行ったということである。
あるものは左から右に指さすべきだといい、そこには陰陽の理があると根拠づけた。
あるものは天地の関係の中から天上をまず指さした後に、大きく振りかぶるようにすること。それこそがここにある真理を指さすべきであると述べた。
あるものは、真理というのは変化するものであるのだから指さす場合にもその指は止めるべきではなく動き続けているものでなければならないとした。そのようにして真理を踊る踊りが披露されることとなった。彼は「動きの中にこそ真理がある」と、その指の動きを定義づけ、無駄のない動きについての研究を続けることとなった。
このようにして、膨大な真理の「指さし方の研究」が何千年にもわたって行われ、古典として積み重ねられた。先人の知恵と呼ばれるそれらは、偉大なる古典の集積として崇められた。勉強家の古人の中には、その「指さし方」の書物を副葬品として埋葬させたものまでいた。
21世紀の現在、彼の墓が発掘されてその埋葬物が出ることとなった。偉大なる古典の原典が出現したと大いに「指さし方」の学会を湧かせることとなった。「指さし方」の原典が判明した!と。
真理はその隣でいつ僕を見てくれるのだろうとじっと待ち続けた。けれども、学会はそれどころではなかった。なにせ、世紀の発見がそこにあるのだから、真理なんてかまってはいられない。
輝ける真理、生命そのものがここにある。それにもかかわらず、生命そのものを見ることをせず、その真理の横でまるで真理から目をそらすように指さし方の研究に励んでいるのはなぜなのだろう。
これは、最初に真理はここにあると指さしたものの罪なのだろうか。それとも賢人と呼ばれた人々の愚かさによるものなのだろうか。
ある人は、仏典が積み上げられなければ釈迦の悟りは伝わらなかったと語った。仏典が伝わらなければ仏教は伝来していないと信じているらしい。仏典がなければ真理はなかったのか?それなら釈迦は決して真理に到達することはなかっただろう。なぜなら、釈迦が生きていた時には仏典など存在していなかったのだから。
真理が見つけられたと伝えられた時、無上の覚りがこの人生の中にあると伝えられた時、あなたはどうするだろう。その言葉を聞きにいくのか。またその指さし方を眺めにそこに行くのだろうか。
私は違う。そのような迷妄はもう、まっぴらごめんだ。
私はここにいる。これが真理だ。私は私(の般若波羅密多)を探求しつづける。それ以外に真理は存在しない。
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