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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

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言葉を越えたリアリティを掴むというとき、そこには必ず幾ばくかの禅の悟りが入り込みます。悟りというと遠くにある太陽か月のようですけれどもそれは違います。ただ、ありのままにここにいてありのままに感じ取ること。当たり前の今を、すべての妄念を取り払って感じ取ろうとするその意識の位置のことを、禅の悟りと呼んでいます。

これが実は脉診に必要になるということは、勉強をし脉診を継続された方であれば容易に理解することができるでしょう。前提や思い込みがあると、必ず診誤まります。そして実はこれは、脉診ばかりではなく、体表観察などのすべての場面において必要になる姿勢です。


見ることができないうちに私たちは学校で言葉を学んでしまいます。そのため、見たものを言葉にあてはめようとしてしまいます。そうしないと安心できない、それができると安心できる。そういう癖を、言葉に使われている私たちはもってしまっています。

暝想は、その言葉を放擲して、リアリティーそのものに肉薄する練習です。仏教にも万巻の書物があります。それを一気に乗り越えて仏陀の悟りにその裸一貫の魂で肉薄しようとするものが禅です。言葉を越えて悟りの実態そのものへと参入していこうとするわけです。この姿勢を不立文字と呼びます。

実は、体表観察をする上で必要な姿勢はこれです。東洋医学にも万巻の書物があります。そのうち、脉診について専門に述べている書物だけでもたくさんあります。後進はその書物を読みこなし、脉診についてなんらかの知識を得、さらに理解を得ようとします。

けれども言葉に従っていては実は脉診は理解できないものなのです。後進は、文字に著されている脉状を、自分が診た脉状と比較しながら、診たものにつけられている名前を探し出そうとします。さらにはその名前で検索して、その脉状の意味を見つけ出そうとさえします。

けれどもそこには何の意味もありません。なぜなら、生命というものはもっともっと大きな流れだからです。大いなる生命の流れの中に私たち一人一人は存在しています。その一人一人の小さな生命の流れの中のごく一部の表現として脉診はあるにすぎません。

生命の大いなる流れの中の、ごく一部。ほんのわずかな表現にすぎないのです。そのため古来、脉に囚われるな、四診全体を見よというのです。四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の生命状況に従って現在の脉状の意味を考えていく。そのように発想の転換をしなければなりません。

四診を通じて全体の生命の流れを把握し、その全体の流れに従って四診それぞれに表現されていることの意味を考えていく。そのように発想の転換をしなければならないのです。

診ることが先、診えたものをどのように呼ぶかということは、後の問題です。その意味をどのように考えていくのかということは、さらにその後の問題なのです。

私たちはそのことを理解するために暝想をします。言葉のすべてを手放して、脉そのものを診れるように、体表観察そのものができるように、全体の生命状況を捉えられるように、暝想をします。

そうやって実は、古典の文言に縛られた東洋医学を乗り越えようとしているわけです。

そうやって実は、体表観察に基づいた医学を、現代に蘇らせようとしているわけです。
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