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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

朱子学も陽明学も、存在の本質とは何かということを探究しているものです。それを通じて正しく生きること、正しい社会認識を行い安定した政治をすることさらには他者に対する礼儀はいかなるものかといったことを、中国古典を通じて編み出そうとしてきたものです。

朱子学は宋代の革新的な思想であり、陽明学は朱子学の基盤のうえに咲いた明代の思想です。双方ともに当時の求道的な思想の影響を受けています。

求道的というのは何を意味するのでしょうか。それは、物事の本質を極めようとする姿勢のことを指しています。生活や自己保存を目標とするのではなく、正しさとは何か、正しさは何によって担保されるかということを極めることを、思考の基盤―人生の目標にしているわけです。

道を求める際、自己をまとめるために、静座を奨めていることも同じです。これは、禅の影響を強く受けているということを意味しています。朱子は禅を全否定しますけれども、その思想の基盤には禅があるのです。陽明はそこまでは禅を否定しませんけれども、儒教一般として、「禅に堕す」ことを忌避します。禅は、生命の学―実用の学ではないと考えているためです。けれども自分の心をまとめ鎮めていくことを通じて、あるがままの自己とは何かという問いに対する答えを、双方とも得ています。

実はこの答えが、朱子学と陽明学とでは少し異なるわけです。


朱子学でなぜ理気二元論のような形になったかというと、物事の本質が物そのものに備わっていると考えるためです。その背景には、存在するものを作ったものが「天」であるとする敬天思想があります。存在そのものにはすでに備わっている正しさがある。その正しい位置においてそのものを取り扱うことが、それの正しい取り扱いかたである、といった具合です。

このため、朱子学では、存在するもの(気)の背景に本来的な性質(性)があり、それを支えている理があるという論理構成となっています。これが性即理という言葉の意味です。

これに対して陽明学ではさらに、ものの本質をとらえている「自分自身は何か」といことへと問いが深化しています。そこまで問わなければものの本質をとらえることはできないのではないかという問題意識がそこにあるためです。

なぜかというと、物そのものの本質を見極めようとしているものは自分である。自分の軸が定まっていなければ物事の本質などみえるわけがない。そういう発想がここにはあるわけです。

この背景には大きく深い自己否定があります。自分の本質を見極めなければ物事の本質には至ることはできないだろう。しかし、その自分とはそもそも何なのだろうか。きちんと物そのものを見ることができるのだろうか。物を見ている自分の本質とは何なのだろう。ここを問い詰めていかなければならないためです。般若心経の眼耳鼻舌心意という自己の知覚の全否定につながる思想がここにはあります。

そしてそのような大き深い壁―自己への絶望にぶち当たったはて、ひたすら求道を光にすがって求めつづけていた底で、王陽明は大きな気づきを得ることとなりました。これが「龍場の大悟」といわれるものです。

その内容は何かというと、「天地万物一体の理」と呼ばれるものです。すべてのものは我が腹中において一体である。私こそがそれを見それらを位置づけているものであるという事実です。ここにおいて王陽明は自己を抜け出で、一体の世界のなかに自己を譲り渡し、そこから言葉を発するようになったわけです。

王陽明はもともと誠実な朱子学者であり、朱子の導きの手にしたがって歩み続けることを通じて、「龍場の大悟」に至り、朱子学の二元論を乗り越えて、万物一体の理のなかに住まうこととなりました。

自己の外に理はない、自分の内に理があるというその姿勢〔注:心即理〕を担保するものは、絶えず自己点検を怠らないということです〔注:致良知〕。ものごとの正誤を認識し決断するものは私でしかありません、そしてその責任を全うするためには自己の鍛錬を怠ることはできません。そのため王陽明は、積極的に人びとの中に入っていき、自己の理解を拡充することを通じて自己を変革しようとしました〔注:知行合一〕。自己の認識能力を厳しく鍛錬すること、そして決断は断固として行い責任をとること。それが陽明学の正しさを担保するものであると考えたわけです。

その正しさとは、「今ここ」における正しさでしかないということはやはり述べておく必要があるでしょう。状況が異なれば経験されることも異なり、決断もそれにつれて異なってくるからです。

一元流鍼灸術はこの王陽明の思想に従います。

長くなりましたので、これ以降は各自考えを深めていってください。注意すべきことは、万物一体の理、の外側には何もないということです。「すべてがこの理の内側にあり、例外はない」ということです。

場を設定し、それを気一元のものとして把握していく一元流鍼灸術の身体観の背景にある思想は、このようなものなのです。


なお、この文章は、以下の著書を参考にしています。


『朱子学と陽明学』小島毅著 ちくま学芸文庫
禅と陽明学との干渉については荒木見悟氏の諸著作
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