初原の門
東洋医学を勉強したり治療において症状の解決技術に着目したりしていると見失われてくるものが全体観、気一元の観点から観るという視座です。昔、学園闘争華やかなりし時代に、東大の教授が専門のことしか知らないことから「専門ばか」と揶揄されていましたが、彼らが見失っていたものがそれです。学問の細かい世界においては、顕微鏡を覗くような、重箱の隅をつつくようなものを積み重ねて検証していくということは必要です。しかし臨床においては、全体観を見失うことは許されることではありません。この端的な例が、手術には成功したけれども患者さんは亡くなってしまったという言いわけです。よりよく生きるということを目指すべき医療において、生命力をどのようにつけていくのかという観点がおろそかになっているため、このような事態を引き起こし、このような言いわけが通用すると考えてしまうわけです。
見ることを始める位置。初原の位置は、ぼやっとはしているけれども、生命そのものの交歓を眺めうる視座(視点の位置)です(いわゆる子供の視座)。そこから生命って何だろう?人はどうやって生きているのだろう?この症状を取るにはどうすればいいだろう?東洋医学って何だろう?という疑問と好奇心が始まります。ところが徐々に、生命の交歓から離れ、書かれているものを読み、全身の状態を離れて局所の(にあると思っている)症状にとらわれていくことになってしまうわけです。とらわれているという点で、これは罠であると言うこともできるでしょう。
もともと生命そのものを喜び慈しみあう美しさに充ちた世界を、さらによく理解したいという興味、好奇心から始まった言葉の世界が、知るという喜びからわれわれの心を引き離してしまう。この罠は、「知恵の木の実」をたべてエデンの園から追放されたアダムとイブが引っかかった、蛇の罠のようです。
「一元流鍼灸術の門」は、その罠に陥った中医学や東洋医学を学ぶ方々へ、ふたたび立ち戻る位置を示したものです。気一元の観点に立脚してきちんと観ていくということは、まさに生命そのものを問い続ける作業でです。このゼロの位置とは何か。初原の位置とは何か。何を自分は観ようとしていたのか。それを思い起こし再び臨床と勉強に臨んでいく「初心の門」こそが「一元流鍼灸術の門」であるわけです。
東洋医学を勉強したり治療において症状の解決技術に着目したりしていると見失われてくるものが全体観、気一元の観点から観るという視座です。昔、学園闘争華やかなりし時代に、東大の教授が専門のことしか知らないことから「専門ばか」と揶揄されていましたが、彼らが見失っていたものがそれです。学問の細かい世界においては、顕微鏡を覗くような、重箱の隅をつつくようなものを積み重ねて検証していくということは必要です。しかし臨床においては、全体観を見失うことは許されることではありません。この端的な例が、手術には成功したけれども患者さんは亡くなってしまったという言いわけです。よりよく生きるということを目指すべき医療において、生命力をどのようにつけていくのかという観点がおろそかになっているため、このような事態を引き起こし、このような言いわけが通用すると考えてしまうわけです。
見ることを始める位置。初原の位置は、ぼやっとはしているけれども、生命そのものの交歓を眺めうる視座(視点の位置)です(いわゆる子供の視座)。そこから生命って何だろう?人はどうやって生きているのだろう?この症状を取るにはどうすればいいだろう?東洋医学って何だろう?という疑問と好奇心が始まります。ところが徐々に、生命の交歓から離れ、書かれているものを読み、全身の状態を離れて局所の(にあると思っている)症状にとらわれていくことになってしまうわけです。とらわれているという点で、これは罠であると言うこともできるでしょう。
もともと生命そのものを喜び慈しみあう美しさに充ちた世界を、さらによく理解したいという興味、好奇心から始まった言葉の世界が、知るという喜びからわれわれの心を引き離してしまう。この罠は、「知恵の木の実」をたべてエデンの園から追放されたアダムとイブが引っかかった、蛇の罠のようです。
「一元流鍼灸術の門」は、その罠に陥った中医学や東洋医学を学ぶ方々へ、ふたたび立ち戻る位置を示したものです。気一元の観点に立脚してきちんと観ていくということは、まさに生命そのものを問い続ける作業でです。このゼロの位置とは何か。初原の位置とは何か。何を自分は観ようとしていたのか。それを思い起こし再び臨床と勉強に臨んでいく「初心の門」こそが「一元流鍼灸術の門」であるわけです。
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