> 内風が起きるということは、肝鬱は化火していると考えてしまっていいのでしょ
> うか?
> それとも化火までいっていなくても内風が起きてしまうこともあるのでしょう
> か?
>
> 肝鬱化火と肝鬱化熱では火のほうが強いと考えていいのでしょうか?
>
> ぐるぐるワールドにはまりました。
内生の邪すべてに言えることなのですが、内生の邪となる前の風寒暑湿燥火そのものは、すでに体内に存在し、生命力を構成しているものです。
その中でも風の大切さは、ライアルワトソンの『風の博物誌』に美しく描かれているように、まるで生命そのものを養い育てている本体であるかのようです。病気の初期状態として、一気留滞説を後藤艮山が唱えたわけです。
風があるからこそ、生命は循環し万物を育てていくことができる。風があるからこそ、生命は留滞することなく全身をめぐり隅々まで身体を養うことができる。
その風が少し行き渡らなくなると留滞がおこる。これが万病の元である気の留滞となります。けれども留滞にも実は意味があります。もし留滞しなければ揺らぎ、揺らぎが強くなるとコントロールしにくくなるわけです。そしてそのコントロールしにくくなったものが自身に違和感を覚えるほど強くなると、内風と呼ばれものとなります。
ですから留滞はある意味で生命力の踏ん張りであるとも言えます。留滞をとるためには、生命力がそこで踏ん張る必要がない状態に調える必要があります。それが一元流鍼灸術における治療目標としているところであるということになります。
ですから、邪気というのは、生命力がバランスを崩すことによって、気一元の場を困窮させ、その存続を劫かす状態となった生命力の状態であると言えます。
気虚や血虚でも内風がおこるように、生命力の流れがコントロールを失うことが内風の本体となります。
化熱と化火の違いは、熱化した段階であればコントロールしやすく、化火した段階になるとコントロールしにくく、延焼しやすいものです。
すべてを一元の気―すなわち生命力の変化状態という観点から見ていくようにすると、答えを得やすくなります。
内風
> 内風が起きるということは、肝鬱は化火していると考えてしまっていいのでしょ
> うか?
> それとも化火までいっていなくても内風が起きてしまうこともあるのでしょう
> か?
>
> 肝鬱化火と肝鬱化熱では火のほうが強いと考えていいのでしょうか?
>
> ぐるぐるワールドにはまりました。
内生の邪すべてに言えることなのですが、内生の邪となる前の風寒暑湿燥火そのものは、すでに体内に存在し、生命力を構成しているものです。
その中でも風の大切さは、ライアルワトソンの『風の博物誌』に美しく描かれているように、まるで生命そのものを養い育てている本体であるかのようです。病気の初期状態として、一気留滞説を後藤艮山が唱えたわけです。
風があるからこそ、生命は循環し万物を育てていくことができる。風があるからこそ、生命は留滞することなく全身をめぐり隅々まで身体を養うことができる。
その風が少し行き渡らなくなると留滞がおこる。これが万病の元である気の留滞となります。けれども留滞にも実は意味があります。もし留滞しなければ揺らぎ、揺らぎが強くなるとコントロールしにくくなるわけです。そしてそのコントロールしにくくなったものが自身に違和感を覚えるほど強くなると、内風と呼ばれものとなります。
ですから留滞はある意味で生命力の踏ん張りであるとも言えます。留滞をとるためには、生命力がそこで踏ん張る必要がない状態に調える必要があります。それが一元流鍼灸術における治療目標としているところであるということになります。
ですから、邪気というのは、生命力がバランスを崩すことによって、気一元の場を困窮させ、その存続を劫かす状態となった生命力の状態であると言えます。
気虚や血虚でも内風がおこるように、生命力の流れがコントロールを失うことが内風の本体となります。
化熱と化火の違いは、熱化した段階であればコントロールしやすく、化火した段階になるとコントロールしにくく、延焼しやすいものです。
すべてを一元の気―すなわち生命力の変化状態という観点から見ていくようにすると、答えを得やすくなります。
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