皆さんは忘れているかもしれませんが、東洋医学などというものは実は存在しません。東洋医学という言葉は、西洋医学に対して使われている言葉であり、江戸時代末期までは、単に正統派医学だったにすぎません。
その正統派医学にはさまざまな種類がありました。紀元後すぐの後漢初期にまとめられ、古典として尊崇される『黄帝内経』の中にさえ、当時のさまざまな流派の記載があります。歴史を下るにつれて、もともとは医学の原点であった鍼灸系統についての記載よりも、より詳細な理論を展開しやすい湯液系統の記載が増えていきます。
富士川游の「日本医学史」によると、日本医学は古くは古事記の時代から存在しているとされています。また、現代の東洋医学家の多くは日本の仁和寺に『黄帝内経太素』という現代中国には残っていないような隨代の古い書物が所蔵されているのをご存知でしょう。さらには、『医心方』や『頓医抄』『万安方』という古医書もすでに日本で書かれているではないかと思われる方もおられるでしょう。
けれどもそれらの書物は、一般の学者の間でさえ共有されていませんでした。
このことは、日本医学中興の祖である田代三喜が、導道という僧侶が明国から輸入した李朱医学を学び〔注:「TSUMURA MEDICAL TODAY 2009年3月25日放送 漢方医人列伝 「田代三喜」 前・東京理科大学 薬学部薬学科 教授 遠藤 次郎」による〕、その治療効果の高さから、医聖とまで呼ばれるようになっていることからも明らかです。
田代三喜が採り入れた明代中期の医学は、現代中医学にも通じる弁証論治による治療法を日本式に勘案したものでした。それはそれまでの、症状に対して処置をしていく民間療法とは、その効果において大きな隔たりのあるものだったのです。
江戸時代につながる医学の大衆化は田代三喜を起源とし、その弟子である曲直瀬道三による医書の大量の出版によって大々的に始まりました。この時代は、日本医学が再構築された時代として銘記されなければなりません。
室町時代の戦乱が終わり、平和な江戸時代が訪れるにつれ、武士たちはその食い扶持を稼ぐ場所を失っていきました。そこで、さまざまな職業に手を染めていきました。その中に、儒教の研究実践で身を修めつつ医家として食いつなぐというというスタイルが出てきました。ここには豪商や庄屋などの知識人も参加し、江戸時代の大衆文化の基礎を形成することとなります。
その主流である京都の民間学派には、禅と陽明学を源流として日本で発展した気一元の人間観に立つ医学が生まれました。その背景には、儒教を日本的に換骨奪胎した多くの儒者、とくに伊藤仁斎の思想がありました。
その正統派医学にはさまざまな種類がありました。紀元後すぐの後漢初期にまとめられ、古典として尊崇される『黄帝内経』の中にさえ、当時のさまざまな流派の記載があります。歴史を下るにつれて、もともとは医学の原点であった鍼灸系統についての記載よりも、より詳細な理論を展開しやすい湯液系統の記載が増えていきます。
富士川游の「日本医学史」によると、日本医学は古くは古事記の時代から存在しているとされています。また、現代の東洋医学家の多くは日本の仁和寺に『黄帝内経太素』という現代中国には残っていないような隨代の古い書物が所蔵されているのをご存知でしょう。さらには、『医心方』や『頓医抄』『万安方』という古医書もすでに日本で書かれているではないかと思われる方もおられるでしょう。
けれどもそれらの書物は、一般の学者の間でさえ共有されていませんでした。
このことは、日本医学中興の祖である田代三喜が、導道という僧侶が明国から輸入した李朱医学を学び〔注:「TSUMURA MEDICAL TODAY 2009年3月25日放送 漢方医人列伝 「田代三喜」 前・東京理科大学 薬学部薬学科 教授 遠藤 次郎」による〕、その治療効果の高さから、医聖とまで呼ばれるようになっていることからも明らかです。
田代三喜が採り入れた明代中期の医学は、現代中医学にも通じる弁証論治による治療法を日本式に勘案したものでした。それはそれまでの、症状に対して処置をしていく民間療法とは、その効果において大きな隔たりのあるものだったのです。
江戸時代につながる医学の大衆化は田代三喜を起源とし、その弟子である曲直瀬道三による医書の大量の出版によって大々的に始まりました。この時代は、日本医学が再構築された時代として銘記されなければなりません。
室町時代の戦乱が終わり、平和な江戸時代が訪れるにつれ、武士たちはその食い扶持を稼ぐ場所を失っていきました。そこで、さまざまな職業に手を染めていきました。その中に、儒教の研究実践で身を修めつつ医家として食いつなぐというというスタイルが出てきました。ここには豪商や庄屋などの知識人も参加し、江戸時代の大衆文化の基礎を形成することとなります。
その主流である京都の民間学派には、禅と陽明学を源流として日本で発展した気一元の人間観に立つ医学が生まれました。その背景には、儒教を日本的に換骨奪胎した多くの儒者、とくに伊藤仁斎の思想がありました。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://1gen.blog101.fc2.com/tb.php/205-6944542b