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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

日本医学の原点
この表の、左側は先ほど述べた田代三喜から始まる江戸時代の正統派医学の系譜です。味岡の四傑というのは、味岡三伯による京都の医学講習所で教鞭を執っていた人々です。中でも岡本一抱は、その生涯を通じておびただしい数の医書を日本語化しその通釈書を残しました。そのため、近世最大のブックメーカーとも呼ばれています。広岡蘇仙はその又弟子にあたり、「難経鉄鑑」という気一元の医学の基礎を、「難経」の解釈を通じて展開しました。

その右の貝原益軒は九州の儒学者です。京都で学びかの有名な「養生訓」を書いています。晩年の著「大疑録」では、朱子学の理気二元論に疑問を提示して、気一元の発想への道を開いています。彼は藩お抱えの儒家だったため、あまり明確に朱子学を批判することはできませんでした。そのため「大疑録」も晩年にならなければ公開されなかったのです。ちなみに貝原益軒の助手となってその大量の著作の出版を助けた武田春庵は、初代味岡三伯の息子です。

その右、中江藤樹は日本に陽明学を導入する契機を作った人。近江上人とも呼ばれました。その弟子の熊沢蕃山は、陽明学を治世に運用して大きな業績を上げました。京都における求道的な知の基本を作った人の一人です。

伊藤仁斎は、孔子に直接学ぶことによって、観念的な朱子学を乗り越え、自らの身を修める学問として取り戻そうとしました。その学統は古義学と呼ばれています。古義学は江戸時代後期に入ると儒学の主流となり、仁斎によらなければ儒学ではないといわれるまでの影響力をもつこととなります。彼もまた当然のように気一元論を説いています。古義堂は明治末期まで京都で塾を継続して開講していました。荻生徂徠はその弟子となります。

本居宣長は、国学の大成者として有名です。味岡三伯医学講習所の弟子筋にあたり、小児科を学んでいました。また、鍼灸師としても活躍しています。息子の春庭は、二十代で盲人となり京都で学んで鍼灸師として糊口をしのぐこととなります。彼は、国語学の研究者として江戸時代の第一人者となっています。

本居宣長は、「ただ毅然たる一気だけが病に抗してこれを制することができます。・・・(中略)・・・ですから、治病之枢機〔注:病気治療においてもっとも大切なこと〕は、真気の勢いを察することにあるのです」「養気は医の至道です〔注:生命力を養うことが、医療においてもっとも大切なことです〕」(「送藤文輿還肥序」本居宣長著拙訳)と述べ、一元の気である生命力の大切さを強調しています。

その右側の黒い棒線部分は、支那大陸における著名な医家を二人だけ並べてみました。その時代を比較しやすいように配慮したものです。張景岳は明末の人で、満州族の侵入と戦いましたが敗れて医学に専心していきました。明代までの医学を系統的に並べて批判し、新たな治法を開発しています。弁証論治派の扇の要にあたるような人です。徐霊胎は明が滅亡した後の満州族の国、清における著名な医家の一人です。その『難経』解釈が広岡蘇仙のものと大きく異なるため、批判的な比較対象と私はしています。

棒線の長さは、その生没年を示しています。


さて、江戸時代の正統派医学である東洋医学の位置は、現代における西洋医学と同じです。

当時の医学はさらに、手かざしや祈祷治療の重みが現代よりもありました。その他、伝承されている民間療法も多くありました。それら対症療法と併行して、先に述べた弁証論治による医学が行われていたわけです。この状況は製薬業界と西洋医学の手術を除いた現代の医学状況と似たようなものであったと言えるでしょう。


そのような状況のなかで、症状に着目し、症状をとる治療家であると自称し、「疾医」を標榜した人々が出現しました。症状治療は、患者さんの思いに迎合するものであり、商売としてヒットしやすいものです。疾医を標榜する人々は、それまでの弁証論治派の医学を「後世方」と軽蔑し、自身を「古方派」と称しました。吉益東洞(1702年~1773年)以降、このような宣伝に長けた人々が跋扈することとなりました。

症状に着目して強引に症状取りを目指す、病気に着目して強引に病気治しを目指すというこの古方派の姿勢は、現代の西洋医学と通底します。そのため、西洋医学者が中心となって推進している現代日本における日本医学史学では、古方派が高く評価されています。医者は病気治し症状取りが中心の業務であるという常識が、真の東洋医学理解の妨げとなっているのです。そのため、東洋医学の本来的な思想である、生命と養生を主眼とする医学が、現代においては傍流に追いやられています。


東洋医学者が護るべき根源的なところとは、今の生を磨く、養生医学です。このことについて私は以前「日本型東洋医学の原点」という論文の冒頭にまとめています。これを紹介し、この項を終えることとします。

「朱子学の理気二元論を、万物一体の仁 の観点から乗り越えた王陽明と同じように、中江藤樹は万物一元の理として乗り越えています。この根源には、禅の悟りである、自他一体の体験があります。これはとうぜん、気ー元の人間観を産み出すものであり、この視点が徐々に医学にも浸透していきました。当時、多くの儒学者が医学を生業としながら儒学を行じていました。そのような環境の中で、実学としての儒学を探究することを通じて、気ー元の人間観が日本での常識として育まれることとなったのでしょう。日本的東洋医学の人間観はここに育まれていったと私は考えています。

前記したように、陽明学の致良知と、禅の悟りの一点と、神道における禊跋とは「共通する一点」を指し示しています。それは、「自分自身の本体を磨き出す」ということです。自分自身の本体を磨き出すことによって、自らの良知を鏡として人生を生きていく、それが陽明学における道を歩むということです。今この瞬間のリアリティをつかむということの中に禅の悟りの本質があります。それは自分を抜けて世界の中に落ちていく、世界が自分の本質であり自分はその中で生かされている生命にすぎない。そういう自覚。そこにおいて、自他は一体のものであり、自分の痛みは他者の痛み他者の痛みは自分の痛みであるという、大いなる生命のつながりを自覚することです。その一点に気付くことが悟りであり、その一点に気付き続けることが禊跋であり、その一点を鏡として今を生きていくことが致良知ということになります。そして江戸時代の人々は学者も含め多くが、このことに気がつき、それを内面で探究し、それを表現しながら生き、読み、書いていたように感じます。単なる学者ではなく、生命の学問―生きていく上で役に立つ学問―をしていたわけです。その中ではじめて気一元の身体観が育まれたわけです。」(http://1gen.jp/1GEN/RONBUN/nihon-igaku.pdf「日本型東洋医学の原点」3p~4p)
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