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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

「いのち」と言葉


さて、東洋医学的鍼灸は求道者によって創始され、江戸時代の求道的な精神を背景にして、気一元の身体観とともに花が咲きました。

探究の焦点となる、自分自身を見つめる心の位置と、四診をする心の位置はおなじです。これは、神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く一点となります。

江戸時代の知の基盤である、「自己の内面を祓い浄め、磨き出された自己の中心をもって、他者を診」ること、すなわち「究極のリアリティー」に、日本における東洋の医学の基礎をおかなければなりません。この心の位置を極めることによって、言葉を越えて存在そのものへと肉薄することができます。ここまで、前回お話ししました。


古代の聖人である、舜(しゅん)の行動様式について孟子は、「舜は仁義によりて行う、仁義を行うにあらず」と述べています。(『孟子』離婁(りろう)章句下二〇)仁義の心を内なる柱として建て、その心に従って自在に舜は行為していた。頭で考えた仁義の定義に従って行動していたのではない、と。

仁義にのっとった行為を、文字にまとめ、経典として作成し、後世に遺すことはできます。そしてそれを道徳として語りつぎ、神聖視することもできるでしょう。その道徳を実践し、それに従って人を裁くこともまたできるわけです。

けれども舜の行いはそうしたものではなかった。自分の中に仁義という正しい柱を建て、後は時と処と縁による行いに任せた。言葉を越えた行為がそこにはあったのだということを、孟子は語りたかったわけです。


このことは、伝承されている東洋医学を神聖視している人々、発掘された書物を神聖視している人々に深い反省をうながすことでしょう。日本には現在、東洋医学の経験方と呼ばれるものが非常にたくさん蓄積されています。また、その屋上屋を重ねるように、体表の反応を見もせずに経穴の意味や効果を定める人々がいます。それは、仁義というものがその時と処と縁を得た関係性の中に行われているということを理解できずに、定義だけで仁義を行うことができると思っている人々と同じなのではないでしょうか。

伝承を大切にする東洋思想には、反面、古人の言葉を神聖視し、無批判にそれを受け入れてしまう傾向があります。古人の言葉であっても、それが事実かどうか、注意深く嗅ぎ分けていかなければなりません。そのためには、真実とはなにかを探究し続けていく求道の精神が、より一層求められることになります。

伝承されてきた多くの書物に記載された記述は、今目の前にある患者さんの生命状況を理解するための道具のひとつです。鍼灸師は、それを左手に軽く握りながら、事実はどうか、という探究心の下、四診をしなければなりません。

今目の前にいる患者さんこそが、古典の原点であり、その生命の声を聴き、言葉を紡ぐことこそが、鍼灸師の仕事となっているからです。

次に掲げている図は、今ここにあるいのちと、その表現方法についての関係を表したものです。この図の外に、言葉に言葉を重ねて、虚言、妄言を吐いている人々の大いなる闇が存在しています。虚言妄言は、妄想が文字を作り出しているため、この量の多さと価値のなさとの落差には、驚くべきものがあります。最も目立つものですけれども、ここでは全く触れていないということに注意して下さい。より大切なこと、意味の裏付けのある、リアルな言葉についてだけ、この表にまとめてあります。
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