fc2ブログ

一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/



さて、鍼灸師が対象とするものは個別の生命です。生成老死、生まれ成長し老い死んでいくその生命の変化していく過程で、内的にも外的にもさまざまなストレスにさらされて人は生きています。いわば揺らぎながらその生命の範囲を定めているものが「人」であるわけです。


生きているかぎり「人」はそこに「いのち」が舎っています。「いのち」は、個体の生を完全に支えているものです。その支える過程でしかしさまざまな「揺らぎ」が現れます。硬く固定化するような形で支えているのではなく、その生命を緩やかに包むように支えているわけです。東洋医学の古典である『難経』では手首の脉状を表現することを通じて、この「いのち」のありさまが表現されています。

四診をする際には、その生命の「揺らぎ」をありのままに捉えることを目標としています。ここには、四診の一つである問診に表現されることの多い「主訴」や「副訴」「従訴」ほか不定愁訴を含みます。またこの揺らぎの中には、問診のその他の項目に出てくる日常生活の様相や、切診で出てくる「脉診」や「腹診」「舌診」「経穴診」などのさまざまな徴候も同じように包含します。

この言葉が意味しているものは何かというと、ここに挙げたすべての要素、四診に表現されているものすべてが、生命の揺らぎを表現しているものであるということです。あるいはもっというと、四診で捉えていることを通じて、その生命の揺らぎをそのまま捉えていこうとする、これが東洋医学の基本的な方法であるということです。


鍼灸師の中には、「治した」自慢をする人々もいます。また、患者さんの中にも「治してもらった」という人がいます。この「治る」ということの中身は何かというと、「主訴」などの症状や病気が和らいだということを意味しています。

けれどもよく考えなければいけないことは、その患者さんの生命の揺らぎの中心課題がその「主訴」などの症状や病気なのではない場合が多いということです。患者さんの身心がもっとも問題としていることは実は、全身状態を理解していかないと、つまりありのままの生命の揺らぎをとらえることができないと、明確になりはしないものであるとも言えます。

治療というものはほんとうは、この「生命の揺らぎ」の深さと原因とを見極め、その生命を調えることを目標とするものです。その際の参考資料として患者さんの訴えである「主訴」などの症状や病気の問題はあります。けれどもその中心課題とすべきものは、全身の生命状況を見極めていかなければ、実は分からないことなのではないでしょうか。

このことは何重にも注意が必要です。症状も切診情報もほかの四診の情報も、その生命の揺らぎを表現しているものです。このことは、症状を取ることが実は治療の目標にはならない、ということを意味しています。生命のバランスをとり、より安定した活力のある生命状況をもたらすことが、治療の目標となるものなのです。

このように考えてくると、患者さんの精神状況がいかに大切な課題であるかということにも、思いが及んでいくことでしょう。

東洋医学では身心を同じ生命表現として捉えていきます。けれども精神的な陶冶(とうや)に関しては宗教や個人的な修業に任せ、あまり触れられません。現代に生きる私としても同じで、心の用い方、人生のどこに価値をおき何を目標とするのかということは、個々人の自由意志に任せるべきであると考えています。これは実は医学の課題がどこにおかれるべきなのかという問題です。あるいは医学の範囲はどこまで及ぶのかという問題でもあります。このあたりは深く大切な課題ですが、混乱しますので今は触れません。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://1gen.blog101.fc2.com/tb.php/211-f7483b9c

この人とブロともになる