「一」の括り
「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。
存在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかというと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙(宇は空間で宙は時間。すなわち、今ここにある生命の枠組みである宇宙)を見ています。であれば生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとまた別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこととなります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのもの―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのもの」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあるそれ―という言葉が相当します。
この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提としているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠組み―宇(空間)宙(時間)をもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲があるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいます。これがこれから課題としようとしている「一」の括りです。陰陽を成り立たせるにも、五行の概念で分析を進めるにも、まず大前提としてこの「一」の括りを意識することが必要となります。
この「一つに括られているもの」を、二つの観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけですけれども、一つのものをよりよく観ていくための概念的な操作を、陰陽論ではしているわけです。
同じように、この「一つに括られているもの」を、五つの観点から見るという概念的な操作をすることを、五行論と呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。また人体における五臓との対応関係も明確なため、東洋医学ではよく用いられる概念となっています。
五臓という個別のものが生命として存在しているわけではありません。五臓すべては、まるごと一つの生命を、生命として存続させるためにあります。ですから五臓で見るとは言っても実は、まるごと一つの生命を眺めているに過ぎないのです。
陰陽論も五行論も、一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているものです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識することが大切だということになります。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間にある表現されていないもの―言葉のあわい―言葉の裏側にある生命そのものを、実際にそくしてリアルに認識することが、とても大切なわけです。
「一」の概念を把握することを難しくしているものに、それが当たり前すぎて意識されないため、言葉になっていないことが多いということがあげられます。
存在そのもの、生命そのものといったときに私たちはそこに何を見ているのかというと、生命を生命としてそこに構成している一つの宇宙(宇は空間で宙は時間。すなわち、今ここにある生命の枠組みである宇宙)を見ています。であれば生命と呼ばずに宇宙と呼べばいいわけなのですが、この言葉を使ってしまうとまた別の概念がそこに生じてきてどこか遠くにある何ものかを想像してしまうこととなります。そこで、それを表現する「以前」の躍動しているそれ―存在そのもの―をやむを得ず「一」と呼んでみたり「生命」と呼んでみたり「存在そのもの」と呼んでみたりするわけです。太極図の概念としては無極―ありのままにあるそれ―という言葉が相当します。
この「一」、生命をもっている「それ」を見る場合に、無意識のうちに大前提としているものがあります。それは「それ」が生命を生命として存在させている枠組み―宇(空間)宙(時間)をもっているということです。存在している空間的な範囲・時間的な範囲があるわけです。この範囲―あるいは限界―を「括(くく)り」と私は呼んでいます。これがこれから課題としようとしている「一」の括りです。陰陽を成り立たせるにも、五行の概念で分析を進めるにも、まず大前提としてこの「一」の括りを意識することが必要となります。
この「一つに括られているもの」を、二つの観点から眺めることを陰陽論と呼びます。二つの観点から眺めているわけですけれども、一つのものをよりよく観ていくための概念的な操作を、陰陽論ではしているわけです。
同じように、この「一つに括られているもの」を、五つの観点から見るという概念的な操作をすることを、五行論と呼んでいます。五行論は、一つのものをよりよく観ていくための、陰陽論よりも少し複雑で、立体的な構造をもたせやすい概念です。また人体における五臓との対応関係も明確なため、東洋医学ではよく用いられる概念となっています。
五臓という個別のものが生命として存在しているわけではありません。五臓すべては、まるごと一つの生命を、生命として存続させるためにあります。ですから五臓で見るとは言っても実は、まるごと一つの生命を眺めているに過ぎないのです。
陰陽論も五行論も、一つのものを無理に二つの観点から五つの観点から観ているものです。ですから、リアリティーをもってそれを理解するためには、あわい―表現されていない 陰と陽との隙間 五行の一つと五行の一つとの隙間―を意識することが大切だということになります。表現されている言葉そのものだけではなく、言葉と言葉の間にある表現されていないもの―言葉のあわい―言葉の裏側にある生命そのものを、実際にそくしてリアルに認識することが、とても大切なわけです。
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