そもそも東洋医学では、全身を五臓と対応する五行の配当で考えます。この五行のそのものは東洋思想においてもっとも古くから考えられているものです。臓としてはそれぞれ、肝は木、心は火、脾は土、肺は金、腎は水に配当されています。この木火土金水は、世界を構成する基本的物質ということで五行と名づけられています。
普通、人はここで疑問に思うことでしょう。木火土金水、それが何を意味するのであれ、この森羅万象のすべてがこの五つに集約されるわけがないではないかと。そしてさらに考えるのは、木火土金水というものは何を意味しているのだろうかということです。仏教では地水火風空という言葉を五大と呼びますが、それとの関連についての興味も尽きないところです。
五行を考えていく上でもっとも大切なことは何かというと、この五つで森羅万象をあえて説明しようとしているということです。言葉を換えて表現すると、森羅万象を眺めていくときにこの五種類以外の発想は一応入れないという約束事をしているということです。さらに別の言葉を用いるならば、丹田という中心をもった揺らぐ生命である「一」をより詳細に眺めようとして、五つの角度をつけて立体的に見ようとしているということになります。
木火土金水は一般的な概念ですけれども、ここでは、森羅万象すべてを分析するための言葉として使われています。森羅万象という言葉をここでは一応用いていますが、どばっと広がった世界ではなく、一つの生命のまとまりの世界として切り取る必要があります。「一」という生命の場がそこになければ、五行を使うことはできません。生命がそこにあるから、始めて生命を分析的に見ることができます。そのような生命の捉え方を、「一括りの生命のある場」「一括りのいのち」「気一元の生命」などと名づけ呼んでいます。
見ていこうとする「一」の場が定まらなければ、陰陽という概念も五行という概念も使うことができません。森羅万象という表現はもっとも大きな生命場の概念です。これを宇宙と表現することもできます。宇宙の「宇」とは空間のことであり「宙」とは時間のことです。すべての場は「時間」と「空間」とが与えられて始めてその場を得、存在しています。このことを禅では、「いま、ここ」と呼んだりします。
東洋医学が問題にしているのは生命の場ですから、「一」は「人」ということになります。一人の人が空間を占め今そこに存在している、医学はその、今、実際に存在している「人」を問題にしている学問であると東洋医学では考えられていたということになります。
五行で考えていくといいますけれども、実は、五つに分けるということが大切なのではありません。人を眺めようとするとき、どのような関係を五行相互に持たせてみようとしているのか、どのような構造で「人」を眺めようとしているのかということが大切なこととなります。その構造はもちろん、実際に存在している人を表現できるものでなければなりません。
普通、人はここで疑問に思うことでしょう。木火土金水、それが何を意味するのであれ、この森羅万象のすべてがこの五つに集約されるわけがないではないかと。そしてさらに考えるのは、木火土金水というものは何を意味しているのだろうかということです。仏教では地水火風空という言葉を五大と呼びますが、それとの関連についての興味も尽きないところです。
五行を考えていく上でもっとも大切なことは何かというと、この五つで森羅万象をあえて説明しようとしているということです。言葉を換えて表現すると、森羅万象を眺めていくときにこの五種類以外の発想は一応入れないという約束事をしているということです。さらに別の言葉を用いるならば、丹田という中心をもった揺らぐ生命である「一」をより詳細に眺めようとして、五つの角度をつけて立体的に見ようとしているということになります。
木火土金水は一般的な概念ですけれども、ここでは、森羅万象すべてを分析するための言葉として使われています。森羅万象という言葉をここでは一応用いていますが、どばっと広がった世界ではなく、一つの生命のまとまりの世界として切り取る必要があります。「一」という生命の場がそこになければ、五行を使うことはできません。生命がそこにあるから、始めて生命を分析的に見ることができます。そのような生命の捉え方を、「一括りの生命のある場」「一括りのいのち」「気一元の生命」などと名づけ呼んでいます。
見ていこうとする「一」の場が定まらなければ、陰陽という概念も五行という概念も使うことができません。森羅万象という表現はもっとも大きな生命場の概念です。これを宇宙と表現することもできます。宇宙の「宇」とは空間のことであり「宙」とは時間のことです。すべての場は「時間」と「空間」とが与えられて始めてその場を得、存在しています。このことを禅では、「いま、ここ」と呼んだりします。
東洋医学が問題にしているのは生命の場ですから、「一」は「人」ということになります。一人の人が空間を占め今そこに存在している、医学はその、今、実際に存在している「人」を問題にしている学問であると東洋医学では考えられていたということになります。
五行で考えていくといいますけれども、実は、五つに分けるということが大切なのではありません。人を眺めようとするとき、どのような関係を五行相互に持たせてみようとしているのか、どのような構造で「人」を眺めようとしているのかということが大切なこととなります。その構造はもちろん、実際に存在している人を表現できるものでなければなりません。
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