私のパソコンの壁紙には少し前まで銀河系群が貼ってありました。そして、それが地球に変化し、今は馬込のお寺に鎮座しているお地蔵さんになっています。
宇宙。限りなく美しく悽壮な宇宙。それを観るとき、私の心は時空を超え、生命原理を超えて飛翔していきます。人の意識は、日常のすべての問題を飛び越えてこのような宇宙の生成にまで伸びていくことができます。
そして宇宙船から見た地球の映像は、それはそれは美しく、生命の溢れかえるこの惑星を見せてくれます。なにものにも換えがたいこの地球。その美しい星の上に、無数の生命が繁茂し、その生命を与えあい、死と誕生とを繰り返してきました。何億年もくり返されてきたこの生命活動の、なんという美しさでしょう。なんという激しさでしょう。なんという残酷さでしょう。そしてなんという喜びでしょうか。生命がここにあることの奇跡!これはまさになにものにも換えがたいものです。まさに神がこれを望んだのであるとしか言いようのない奇跡が今この地球上に現れているのです。
大宇宙の中に銀河系群があり、銀河系群の中に、この太陽系を宿した銀河系があり、その中に指先で押しつぶされそうな太陽系が育まれ、太陽を周る軌道上の闇の中にぽっかりと浮かんでいる芥子粒のような地球がある。そこに宿されている生命!これこそが無限の時間を経てようやく誕生した奇跡と呼んでもいい生命です。生命の奇跡、神秘が今ここにあるわけです。
その地球上で生命を分かち合いながら動物と植物とが何億年も葛藤してきました。せめぎあう生命、それは別の角度からいえば、生命を与え合う関係でもありました。自らのもっとも喜びとするもの、喜びの源泉である生命を分かち、与えることによって今、生を続けている生命があります。今ここに生かされてあるその生命の奇跡を、私はなんと表現すればよいでしょう!この生命の中には、数多くの分かち与えられた生命が宿り、一つになって生命活動を行っています。今、ここに生きている私は、まさにその無限の時間と無限の生命によって与えられた一つの生命としての統一体です。
この統一体こそが、気一元の生命と呼ばれるものです。
鍼灸師は、その一つの生命に対して、さらにその生命の中のツボの一点に向かって処置を施していきます。一点を探るわけですから、観方は非常に繊細かつ詳細になります。鍼灸師の勉強会で望まれることの多くが、この症状を取るにはどこに処置すればいいのか、経穴名を教えてほしいという質問であるということも、むべなるかなと言わなければなりません。
しかし、病むということ、症状を呈するということはどのようなことなのでしょうか。この生命の奇跡の中に生き生かされている一人の人が癒されるということはどのようなことなのでしょうか。本来、そこをこそ問うべきなのではないでしょうか。
それはともかく、ここまでの話の中で、視座の変化が見て取れたのではないかと思います。大宇宙から人という微小宇宙まで、何段階にも別れています。何を観ようとしているのかという観点(視座と観る対象の設定)、がいかに大切であるということは、ここからすぐに理解できることと思います。
大宇宙を思うとき、人の生死などというものは顧慮することもできないほどとても小さなものです。いわんや病気など、生きているという厳然たるこの事実に比較すれば、埃のようなものです。
医療というものはこの埃を掃う技術のことをいいます。そして、少なくとも一元流鍼灸術は、生命の側に立って、生命力を活性化させることによってこの埃を自らの生命力で掃えるようになるように患者さんを導くことを目指しています。
宇宙。限りなく美しく悽壮な宇宙。それを観るとき、私の心は時空を超え、生命原理を超えて飛翔していきます。人の意識は、日常のすべての問題を飛び越えてこのような宇宙の生成にまで伸びていくことができます。
そして宇宙船から見た地球の映像は、それはそれは美しく、生命の溢れかえるこの惑星を見せてくれます。なにものにも換えがたいこの地球。その美しい星の上に、無数の生命が繁茂し、その生命を与えあい、死と誕生とを繰り返してきました。何億年もくり返されてきたこの生命活動の、なんという美しさでしょう。なんという激しさでしょう。なんという残酷さでしょう。そしてなんという喜びでしょうか。生命がここにあることの奇跡!これはまさになにものにも換えがたいものです。まさに神がこれを望んだのであるとしか言いようのない奇跡が今この地球上に現れているのです。
大宇宙の中に銀河系群があり、銀河系群の中に、この太陽系を宿した銀河系があり、その中に指先で押しつぶされそうな太陽系が育まれ、太陽を周る軌道上の闇の中にぽっかりと浮かんでいる芥子粒のような地球がある。そこに宿されている生命!これこそが無限の時間を経てようやく誕生した奇跡と呼んでもいい生命です。生命の奇跡、神秘が今ここにあるわけです。
その地球上で生命を分かち合いながら動物と植物とが何億年も葛藤してきました。せめぎあう生命、それは別の角度からいえば、生命を与え合う関係でもありました。自らのもっとも喜びとするもの、喜びの源泉である生命を分かち、与えることによって今、生を続けている生命があります。今ここに生かされてあるその生命の奇跡を、私はなんと表現すればよいでしょう!この生命の中には、数多くの分かち与えられた生命が宿り、一つになって生命活動を行っています。今、ここに生きている私は、まさにその無限の時間と無限の生命によって与えられた一つの生命としての統一体です。
この統一体こそが、気一元の生命と呼ばれるものです。
鍼灸師は、その一つの生命に対して、さらにその生命の中のツボの一点に向かって処置を施していきます。一点を探るわけですから、観方は非常に繊細かつ詳細になります。鍼灸師の勉強会で望まれることの多くが、この症状を取るにはどこに処置すればいいのか、経穴名を教えてほしいという質問であるということも、むべなるかなと言わなければなりません。
しかし、病むということ、症状を呈するということはどのようなことなのでしょうか。この生命の奇跡の中に生き生かされている一人の人が癒されるということはどのようなことなのでしょうか。本来、そこをこそ問うべきなのではないでしょうか。
それはともかく、ここまでの話の中で、視座の変化が見て取れたのではないかと思います。大宇宙から人という微小宇宙まで、何段階にも別れています。何を観ようとしているのかという観点(視座と観る対象の設定)、がいかに大切であるということは、ここからすぐに理解できることと思います。
大宇宙を思うとき、人の生死などというものは顧慮することもできないほどとても小さなものです。いわんや病気など、生きているという厳然たるこの事実に比較すれば、埃のようなものです。
医療というものはこの埃を掃う技術のことをいいます。そして、少なくとも一元流鍼灸術は、生命の側に立って、生命力を活性化させることによってこの埃を自らの生命力で掃えるようになるように患者さんを導くことを目指しています。
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