陰陽五行で脉を診る
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということから学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れるということは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強くなりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということが病むということであり、バランスを回復させることが治すということです。
自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を診ることを用いて、このことについて解説してみましょう。
脉というものはぼ~っと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに見ているだけでは見えてこないものなのです。何かの目標を持つことによって、見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。
六部定位の脉診とは、橈骨動脈の脉の診処を、寸口・関上・尺中の脉位によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定め、それを治療に応用していくものです。
一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、その中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりと診ることもできていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんなものはナンセンスです。先ず診ること。そこに言葉にする以前のすべてがあります。
見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てくるものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその実態をつかんでいなければいけないのです。このようにいうと当たり前のことですけれども、それができていないのが現状ですので、何度も述べています。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきます。これを位置としての左関上の沈位が脉状としての弦緊であり、位置としての右の尺中が脉状としては浮にして弾である、などという「表現」となって漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということです。あらかじめ定められた脉状が、あらかじめ定められた脉位にあるわけではないのです。
何も決まりのない気一元の生命という混沌、それが寸口の脉状です。その混沌を指尖で感じとりながら、診る位置を定め、その位置の脉状を感じとる、これが実践において、陰陽五行を用いるということです。
寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見ているものです。濡弱とか弦緊とか表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状を見ているものです。
ある脉位の脉状が目立つということは、その部位が他の部位と違っているためです。胃の気がしっかり通っている脉状の場合には脉位による違いは診えにくくなるものです。
気一元の観点で捉えることの初期に行われていた思考訓練は、陰陽で人を見る、五行で人を見るということでした。陰陽で人を見る、五行で人を見るということから学んできたことは、バランスよく観るということです。バランスが崩れるということは陰あるいは陽が、また五行の内の一つあるいはいくつかが偏って強くなりあるいは弱くなったことによって起こります。バランスが崩れるということが病むということであり、バランスを回復させることが治すということです。
自身の観方に偏りがないかどうか、それを点検するために陰陽五行を用いて「観る」ことを点検していたわけです。
脉を診ることを用いて、このことについて解説してみましょう。
脉というものはぼ~っと見ているとはっきり見えないものです。見るともなしに見ているだけでは見えてこないものなのです。何かの目標を持つことによって、見たいものが見えてきます。それがたとえば六部定位の脉診です。
六部定位の脉診とは、橈骨動脈の脉の診処を、寸口・関上・尺中の脉位によってその浮位と沈位との強弱を比較してもっとも弱い部位を定め、それを治療に応用していくものです。
一元流の脉診であれば、六部定位の浮位と沈位とを大きくざっと見て、その中でもっとも困っていそうな脉位を定めてそれを治療目標とします。
この大きくざっと見ることが実は大切です。脉そのものをしっかりと診ることもできていないのに、脉状を云々する人がたくさんいるわけですけれども、そんなものはナンセンスです。先ず診ること。そこに言葉にする以前のすべてがあります。
見えているものをなんとか言葉にしていこうとうんうん呻吟した末に出てくるものが、脉状の名前でなければなりません。言葉で表現したいと思う前にその実態をつかんでいなければいけないのです。このようにいうと当たり前のことですけれども、それができていないのが現状ですので、何度も述べています。
見て、そしてこれを陰陽の観点から五行の観点から言葉にして表現していきます。これを位置としての左関上の沈位が脉状としての弦緊であり、位置としての右の尺中が脉状としては浮にして弾である、などという「表現」となって漏れてくるわけです。これが陰陽の観点から五行の観点から見るということです。あらかじめ定められた脉状が、あらかじめ定められた脉位にあるわけではないのです。
何も決まりのない気一元の生命という混沌、それが寸口の脉状です。その混沌を指尖で感じとりながら、診る位置を定め、その位置の脉状を感じとる、これが実践において、陰陽五行を用いるということです。
寸口や尺中という位置が定められ表現されているのは、五行の観点から見ているものです。濡弱とか弦緊とか表現されているのは、堅いのか柔らかいのかという陰陽の観点からその脉状を見ているものです。
ある脉位の脉状が目立つということは、その部位が他の部位と違っているためです。胃の気がしっかり通っている脉状の場合には脉位による違いは診えにくくなるものです。
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