気一元の観点から観る
四診を取る時も、五臓の弁別を作る時も、病因病理を作る時も、日々の治療をする時にも、その底にいつも必要なものは、勘をよく働かせるということです。
それでは、きちんとした勘というのはどこから起こるのでしょうか。
それは、「一」を意識するところから起こります。「一」というのは一部ではなく、全体まるごと一つのことです。全体とは何か、まるごと一つとは何かということを、実はここで考える必要があります。
よく考えてみてください。
その時その時、毎瞬々々の「不完全さの中に、全体まるごと一つがある」というのが人間の姿です。
いつも不完全なのですが、その時その時には、その時表現している以外の姿を取りようがありません。病があっても不調があっても、その時その瞬間は、そのままで完全です。そういうまるごと一つを見るわけです。そういうまるごと一つの変化していく姿が時系列であらわれます。それを見るわけです。時々刻々と変化する胃の気、時々刻々と変化する生命力を見ようとすること。これを勘働きと呼ぶわけです。
時々刻々と変化する胃の気―生命力を感取することを「全体観」と呼びます。この全体観を離れて、文字にとらわれると、勘は死にます。全体観を離れて、経穴や脉にレッテル貼りを始めると、勘は死にます。
胃の気を見るということは、この全体の生命状況を見るということです。ですから、「胃の気」とレッテルを貼られた静的な状態が存在しているわけではありません。時々刻々変化する動きとしての胃の気の状態を、しっかり把握することが大切なのです。胃の気を眺めていく方から、今出ている現象を考えていく。このことがとても大切なことなのです。
胃の気の方から考えるということは、生命の方から考えるということです。生命力の有様を考えてその変化の中から今の状況を判断していくということです。このことが大切なわけです。
今の状況にレッテルを貼って辞書でひくことと、今の状況を気一元の観点から観る、すなわち生命力の側から眺めていく決意をするということの違い。繰り返しになりますが、このことこそが、よく理解されなければならないことです。
四診を取る時も、五臓の弁別を作る時も、病因病理を作る時も、日々の治療をする時にも、その底にいつも必要なものは、勘をよく働かせるということです。
それでは、きちんとした勘というのはどこから起こるのでしょうか。
それは、「一」を意識するところから起こります。「一」というのは一部ではなく、全体まるごと一つのことです。全体とは何か、まるごと一つとは何かということを、実はここで考える必要があります。
よく考えてみてください。
その時その時、毎瞬々々の「不完全さの中に、全体まるごと一つがある」というのが人間の姿です。
いつも不完全なのですが、その時その時には、その時表現している以外の姿を取りようがありません。病があっても不調があっても、その時その瞬間は、そのままで完全です。そういうまるごと一つを見るわけです。そういうまるごと一つの変化していく姿が時系列であらわれます。それを見るわけです。時々刻々と変化する胃の気、時々刻々と変化する生命力を見ようとすること。これを勘働きと呼ぶわけです。
時々刻々と変化する胃の気―生命力を感取することを「全体観」と呼びます。この全体観を離れて、文字にとらわれると、勘は死にます。全体観を離れて、経穴や脉にレッテル貼りを始めると、勘は死にます。
胃の気を見るということは、この全体の生命状況を見るということです。ですから、「胃の気」とレッテルを貼られた静的な状態が存在しているわけではありません。時々刻々変化する動きとしての胃の気の状態を、しっかり把握することが大切なのです。胃の気を眺めていく方から、今出ている現象を考えていく。このことがとても大切なことなのです。
胃の気の方から考えるということは、生命の方から考えるということです。生命力の有様を考えてその変化の中から今の状況を判断していくということです。このことが大切なわけです。
今の状況にレッテルを貼って辞書でひくことと、今の状況を気一元の観点から観る、すなわち生命力の側から眺めていく決意をするということの違い。繰り返しになりますが、このことこそが、よく理解されなければならないことです。
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