東洋医学が記述されてきた歴史の中でおそらくもっとも重大な問題は、わかりもせずに記述が積み重ねられているということでしょう。
これは戦乱の中にありながら伝統を残していこうとしてきた、主に支那大陸の先人たちの、必死な志の精華であるとも言えます。けれども、後代の人間がそれらの言葉を鵜呑みにし、文字に文字を重ねる形で論を広げていく段になると、容認しがたい空論の積み重ねとなっていきます。
現代の日本においても未だにこのような、妄想に妄想を重ねて理論らしきものを作り上げようとしている団体があることは、まことに悲しむべき悼むべきことです。
惑いの中にいる人々は、たとえば脉状には名前があるべきだとしてその名称を先に覚え、それを今診ている脉状に当てはめようとしてしまいます。疾病には名前があるべきだとしてその名称を先に覚え、それを目の前の患者さんに当てはめようとしてしまいます。
これでは正しく人間(上記の例で言えば脉や疾病)を診るということはできません。分類してレッテルを貼っているだけです。言葉に踊らされてその奴隷となっているに過ぎないのです。目の前にある存在をありのままに診るのではなく、分類した箱の中に入れてレッテルを貼り、安心したいだけなのです。
この行為は、「まるごと一つとして生きている生命」をはなはだ侮辱し侵害するものです。そしてこれが政治的にも大々的に行われているのが中医学や西洋医学である、ということは言うまでもありません。
人間そのものを診る。人間そのものに肉薄するという東洋医学の伝統に沿う時、このような軽薄な分類は、もっとも避けるべきことです。
診る、そしてわからずに戸惑う。診る、そしてそのわからない中から言葉を探り出し、今わずかでもみえている状況を表現しようとする。この戸惑いの中にこそ「行為としての東洋医学」を実践し人間を理解していく原点があります。
愚かな人々の中には、見えてもいないのにそれを言葉で表現してしまう人々がいます。いつも自己批判的に行っている、一元流鍼灸術の勉強会を実践している中でさえ、そのような人が現れることがあります。反省意識の薄い勉強会であればなおさら推して知るべきでしょう。
そしてこれは実は、東洋医学の古典に記述されている言葉もそうであるということは、押さえておかなければいけないことです。見えていないにもかかわらず愚かにもそれを語り述べ広げてしまう。この愚行の走りは、実に「脉経」〈280年頃王叔和著〉の時代からすでに支那大陸には存在しています。
これらの言葉の群れに惑わされないためにはどうすればいいのでしょうか。
それは東洋医学における人間把握の方法の原点である黄老道について研究し、その根底にある人間観を身につけることです。黄老道の到達点は、天と人とが対応関係にあるという観方と、それに基づく陰陽五行理論です。これこそが無明の存在を見分け理解しようとする東洋医学的なアプローチの原点です。
そしてこれはもとより、陰陽や五行に分けることが目的なのではなく、「まるごと一つとして生きている生命」をありのままに把握し解説しようとする行為の中で産み出された方法です。見るという戸惑いのただ中にありながら、見ているものをなんとか正確に理解し表現しようとする情熱によって産み出された方法なのです。
これは戦乱の中にありながら伝統を残していこうとしてきた、主に支那大陸の先人たちの、必死な志の精華であるとも言えます。けれども、後代の人間がそれらの言葉を鵜呑みにし、文字に文字を重ねる形で論を広げていく段になると、容認しがたい空論の積み重ねとなっていきます。
現代の日本においても未だにこのような、妄想に妄想を重ねて理論らしきものを作り上げようとしている団体があることは、まことに悲しむべき悼むべきことです。
惑いの中にいる人々は、たとえば脉状には名前があるべきだとしてその名称を先に覚え、それを今診ている脉状に当てはめようとしてしまいます。疾病には名前があるべきだとしてその名称を先に覚え、それを目の前の患者さんに当てはめようとしてしまいます。
これでは正しく人間(上記の例で言えば脉や疾病)を診るということはできません。分類してレッテルを貼っているだけです。言葉に踊らされてその奴隷となっているに過ぎないのです。目の前にある存在をありのままに診るのではなく、分類した箱の中に入れてレッテルを貼り、安心したいだけなのです。
この行為は、「まるごと一つとして生きている生命」をはなはだ侮辱し侵害するものです。そしてこれが政治的にも大々的に行われているのが中医学や西洋医学である、ということは言うまでもありません。
人間そのものを診る。人間そのものに肉薄するという東洋医学の伝統に沿う時、このような軽薄な分類は、もっとも避けるべきことです。
診る、そしてわからずに戸惑う。診る、そしてそのわからない中から言葉を探り出し、今わずかでもみえている状況を表現しようとする。この戸惑いの中にこそ「行為としての東洋医学」を実践し人間を理解していく原点があります。
愚かな人々の中には、見えてもいないのにそれを言葉で表現してしまう人々がいます。いつも自己批判的に行っている、一元流鍼灸術の勉強会を実践している中でさえ、そのような人が現れることがあります。反省意識の薄い勉強会であればなおさら推して知るべきでしょう。
そしてこれは実は、東洋医学の古典に記述されている言葉もそうであるということは、押さえておかなければいけないことです。見えていないにもかかわらず愚かにもそれを語り述べ広げてしまう。この愚行の走りは、実に「脉経」〈280年頃王叔和著〉の時代からすでに支那大陸には存在しています。
これらの言葉の群れに惑わされないためにはどうすればいいのでしょうか。
それは東洋医学における人間把握の方法の原点である黄老道について研究し、その根底にある人間観を身につけることです。黄老道の到達点は、天と人とが対応関係にあるという観方と、それに基づく陰陽五行理論です。これこそが無明の存在を見分け理解しようとする東洋医学的なアプローチの原点です。
そしてこれはもとより、陰陽や五行に分けることが目的なのではなく、「まるごと一つとして生きている生命」をありのままに把握し解説しようとする行為の中で産み出された方法です。見るという戸惑いのただ中にありながら、見ているものをなんとか正確に理解し表現しようとする情熱によって産み出された方法なのです。
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コメント
為になる記事ありがとうございます。
読ませていただきましたのでお礼がわりにコメントを。
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