弁証論治をたてる際に、確かなものを中心として考えを構築していくということをよくお話します。けれどもこの「確かなもの」というのが何かということは、なかなかわかりにくいのです。どうしてかというと、まじめであればあるほど細かい違いを問題にし、詳細な記述に走りやすいためです。そのほうが「わかった感」を得やすいためです。けれども、正確に詳細に記述しようとすればするほど、記述のための記述になり、生命の全体像を見失ってしまいます。記述が正確であればあるほどその背景に浮かび上がる生命そのものが、見えにくくなるわけです。
生命の全体像というのは何なのでしょうか。眼差しとしてはひとつの生命を括って、柔らかく愛おしむことです。これが一番最初の心。一の心です。善悪や判断を越えて、病や生死を超えて、そこに存在している生命そのものを愛おしむとこと。その美しさと出会ったことに感謝すること。同じ生命を自分も保持させていただいていることに感謝することです。ここにすっぽりいるとき、問題などは何もありません。
その次元で酔生夢死している意識を少し目覚めさせて、四診に入ります。問題は何なのだろう、何がこの人の活力を奪っている中心なのだろう、よりよく生きるには何が必要なのだろう。そんな心です。まだまだ分析的ではなく、よく聴いて心に映ったその人の姿を感じとりながら、痛みや悲しみや空洞感を共有してみます。この時表現されているものはさまざまな症状であったり怒りや嘆きや愚痴であったりする可能性はあります。けれども、それらに振り回されないように注意して「治療家の側の心を定めたまま」耳を傾けます。聴く。よりよく聴くということがこの際の課題となります。
充分に心に響いた所で記述します。それらの資料を五臓の弁別として緩やかにまとめていきます。分けることが目的ではありません。理解することが目的でもありません。何を感じたのか、何を観たのかを確かめるように、選り分けていくわけです。
五臓の弁別の効用として、思い込みを排除して客観性を保つということがあります。実はこの「心に響いた所」と「客観性」との淡い、一筋の糸の緊張の中で五臓の弁別は記載されなければなりません。ここが難しい所となります。
五臓の弁別を作成する時に、すでに言葉化されている情報に頼りすぎると、言葉化される以前の感覚を忘れてしまいます。これが大切でこれがたいした問題ではないということを、五臓の弁別をする前には確かに感じとっていたはずなのに、いつの間にか見失ってしまうことがあります。これは、心に響いたことを忘れて理屈に走ってしまうためによく起こる現象です。
このままの感覚で病因病理を書いていくと、正しそうだけれども理屈っぽくて、その患者さんの状態があまり浮き上がって見えてこないものとなります。部分部分は正しそうな理屈をつけているわけですけれども、時間的空間的な全体像を失っているものができあがるわけです。そしてこういう病因病理は、まじめな人ほど陥りやすい罠です。心よりも理論を追い求めるために起こる、深い問題です。言葉の罠とも言えます。
この解毒剤は、「充分に心に響いた所」の感覚を忘れないようにするところにあります。これが四診を通じて感じとった「確かなもの」を中心として論理を構築していく病因病理につながっていきます。確かなものは、見えやすい所にあります。無理なく見えるものを表現した言葉(大切)と、無理に見たものを表現した言葉(あまり大切ではない)とには、軽重をつける必要があるわけです。けれども目の前に言葉として並んでいると、この軽重をつけることが難しくなります。どうしてかというと、無理に見たものを表現した言葉の方が不安がある分だけ詳しく説明される必要があり、量として多くの言葉で飾られ見栄えがよくなってしまうためです。言葉の量が多くなるため、重要なことのように思えるのです。
このため、本当は大切な所から遠く離れている情報であっても大切に見えたり、大切な情報であってもあまり大切ではないように見えたりします。「充分に心に響いた所」の感覚、その心の位置をしっかりと踏み固め、近いものは明確にはっきりと見、遠いものは遠くに霞んで見えるという距離感を持てるようにすると、より実態に合った病因病理を構築していくことができるでしょう。この遠近感は、記載されている言葉が多いか少ないかによるものではありません。言葉の量に振り回されないよう、注意する必要があります。
生命の全体像というのは何なのでしょうか。眼差しとしてはひとつの生命を括って、柔らかく愛おしむことです。これが一番最初の心。一の心です。善悪や判断を越えて、病や生死を超えて、そこに存在している生命そのものを愛おしむとこと。その美しさと出会ったことに感謝すること。同じ生命を自分も保持させていただいていることに感謝することです。ここにすっぽりいるとき、問題などは何もありません。
その次元で酔生夢死している意識を少し目覚めさせて、四診に入ります。問題は何なのだろう、何がこの人の活力を奪っている中心なのだろう、よりよく生きるには何が必要なのだろう。そんな心です。まだまだ分析的ではなく、よく聴いて心に映ったその人の姿を感じとりながら、痛みや悲しみや空洞感を共有してみます。この時表現されているものはさまざまな症状であったり怒りや嘆きや愚痴であったりする可能性はあります。けれども、それらに振り回されないように注意して「治療家の側の心を定めたまま」耳を傾けます。聴く。よりよく聴くということがこの際の課題となります。
充分に心に響いた所で記述します。それらの資料を五臓の弁別として緩やかにまとめていきます。分けることが目的ではありません。理解することが目的でもありません。何を感じたのか、何を観たのかを確かめるように、選り分けていくわけです。
五臓の弁別の効用として、思い込みを排除して客観性を保つということがあります。実はこの「心に響いた所」と「客観性」との淡い、一筋の糸の緊張の中で五臓の弁別は記載されなければなりません。ここが難しい所となります。
五臓の弁別を作成する時に、すでに言葉化されている情報に頼りすぎると、言葉化される以前の感覚を忘れてしまいます。これが大切でこれがたいした問題ではないということを、五臓の弁別をする前には確かに感じとっていたはずなのに、いつの間にか見失ってしまうことがあります。これは、心に響いたことを忘れて理屈に走ってしまうためによく起こる現象です。
このままの感覚で病因病理を書いていくと、正しそうだけれども理屈っぽくて、その患者さんの状態があまり浮き上がって見えてこないものとなります。部分部分は正しそうな理屈をつけているわけですけれども、時間的空間的な全体像を失っているものができあがるわけです。そしてこういう病因病理は、まじめな人ほど陥りやすい罠です。心よりも理論を追い求めるために起こる、深い問題です。言葉の罠とも言えます。
この解毒剤は、「充分に心に響いた所」の感覚を忘れないようにするところにあります。これが四診を通じて感じとった「確かなもの」を中心として論理を構築していく病因病理につながっていきます。確かなものは、見えやすい所にあります。無理なく見えるものを表現した言葉(大切)と、無理に見たものを表現した言葉(あまり大切ではない)とには、軽重をつける必要があるわけです。けれども目の前に言葉として並んでいると、この軽重をつけることが難しくなります。どうしてかというと、無理に見たものを表現した言葉の方が不安がある分だけ詳しく説明される必要があり、量として多くの言葉で飾られ見栄えがよくなってしまうためです。言葉の量が多くなるため、重要なことのように思えるのです。
このため、本当は大切な所から遠く離れている情報であっても大切に見えたり、大切な情報であってもあまり大切ではないように見えたりします。「充分に心に響いた所」の感覚、その心の位置をしっかりと踏み固め、近いものは明確にはっきりと見、遠いものは遠くに霞んで見えるという距離感を持てるようにすると、より実態に合った病因病理を構築していくことができるでしょう。この遠近感は、記載されている言葉が多いか少ないかによるものではありません。言葉の量に振り回されないよう、注意する必要があります。
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