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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

虚実補瀉


「生命の弁証論治」は、四診を通じて生命の状態をありのままに把握して得られる弁証論治です。いわゆる、証候名を把握してその証候に沿った治療技術を東洋医学の歴史の中から選択し、それを患者さんに施す、という「中医学」で行われているようなものではありません。

あくまでも事実を集積し、それを陰陽五行の観点から分析し、構成し直して病因病理を考察し、生命力の厚薄にしたがって処置を決定していくものです。まるごとひとつの生命という視点から一歩も外れることなく、最初から最後まで構成されている弁証論治の方法です。

鍼灸において生命力を調えるということは、主として体表における生命力の厚薄を見極め、それを調えるということになります。呼吸が身体全体に行き渡るように鍼灸の治療もすぐに身体全身に行き渡ります。このことは処置の前後の体表観察をしているとよくわかります。一瞬で脉は変化しますし、皮膚の状態も変化します。これは上手だからそうなるということではなく、人と人とが触れあうということがそういうものだということなのでしょう。ふだんなにげなく行っている言葉かけや触れあいの中でもおそらく、身心は大きく変化していることでしょう。治療家はその変化を体表観察を通じてとらえることができるということにすぎません。


問題は、変化が起こるということではなく、「何をして何がおこっているのか」ということを見極めるというところにあります。古来の鍼灸理論には、虚実補瀉を見極めることができれば鍼灸の半ばは終わると言っていました。非常に有名な言葉です。そして著名な鍼灸師の中には、その古典の言葉の故に、自身は、虚実補瀉を理解していると思っている人がたくさんいます。

けれども、気一元という言葉の中身が理解できていなければ、虚実補瀉という言葉は理解されることはありえません。何を気一元の場としてみているのかということがなければ、虚実の判断はありえないのです。何を気一元の場としてみているのか理解できない人が、患者さんに補瀉を施すことなどできてはいないのです。けれども古典を信仰している人々はそれができると信じています。理解しているのではなく信仰しているわけです。そのため、すべては治療家の手のひらの中で行われるとばかり、手技の中に補瀉があるかのような誤解を持ちながら、平然としていられるわけです。


虚実とは、生命力の虚と邪気の実のことであり、補とは生命力を補うこと瀉とは邪気を瀉すことであるということは、中医学における定義のようになっており、よく言われている言葉です。読んでいれば理解できたような気がする言葉です。けれども、実際に照らしてみるとこの言葉はまったくナンセンスです。

そもそも生理的な現象というものは、生命力を自然に内に蓄え(補)ていき、不要なものを外に排泄している(瀉)ものです。補瀉は同時に行われて初めて生命は成り立っているわけです。これを新陳代謝と呼びます。生命力の虚と邪気の実が虚実という言葉の意味ではなく、生命力が充実していて正常に働いていることによって、虚実の転換、新陳代謝がうまくいっているわけです。

これに対して病理的な現象になると、排泄する場合にも過剰に排泄して生命力まで流れ出ていくような場合(排便後の疲れや発汗による疲れなど)もあります。便通や発汗などで疲労するというのは、生命力が損傷されている証拠です。邪気を排泄するとともに、身体から生命力が流れ出ているわけです。古い定義で言えば、邪気が虚すれば生命力は充実するはずでした。けれども実際にはそうならないわけです。邪気が虚するにつられて生命力も虚していく状態になっている。生命力を内にしっかり保つことのできない状態が問題なわけです。これはいわば、正邪の分離がうまくできていない状態であるといえます。排泄するための生命力が、邪気につられて流れ出していってしまっているわけです。

また、これとは逆に、排泄が滞り体内に毒素を溜め込む場合(病的な肥満や排尿不良による尿毒症など)もあります。生命力を排泄することはないわけですけれども、邪気も溜込んでしまう。これを一義的に排泄機能の低下と呼ぶことはできません。無理に排泄させようとして強い薬を与えたり、強い刺激を与えると、邪気の排泄とともに生命力も流れ出してしまう可能性があるためです。溜め込んでしまう理由は、生命力が弱っていて、邪気の排泄ができないというところにあるわけです。もっといえば、生命力が邪気とともに排泄されないよう、内に溜め込んでいる状態であるともいえます。

問題の焦点は両方とも、生命力が充実していくような方向で新陳代謝が行われることができなくなっているというところにあるのです。生命力が充実するということは自在に邪気が排泄されて生命力が充実していく、正邪の分離が明瞭に行われるところにあったわけです。


身体に負担がかかり続けている慢性疲労状態となると、この正邪の分離をする機能が低下していきます。これを器の問題で考えると、敏感さが失われてくると、一元流鍼灸術では表現しています。

身体には、生命力の虚と邪気の実があり、邪気の実を瀉すと生命力の虚が補われ、生命力の虚を補うと邪気の実は消えていくという、古代からの鍼灸師の信仰はここに、根拠のないものとして葬り去られなければなりません。
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