古典の読み方
東洋医学には数千年に及ぶ知識が集積されています。とても多くの書物となって、その知識が蓄積されているわけです。私はその多様な蓄積を尊崇しています。
けれども本当の古典とは、目の前にいる患者さんの身体です。書物に書かれている古典はそれを読み解くために作成された、古くからある参考書にすぎません。目の前にある患者さんの生命の動きを観ることを通じて、古典は検証されなおさなければなりません。
また、古典もその書かれた当時の思想や時代状況、書いた人物の個性によって、死生観の背景は異なります。ですから、その古典で何が書かれ何を参考にし何を捨てるかということは、現代に生き患者さんの身心を古典としてみることができる、われわれが取捨選択しなければならないこととなります。
古典を権威ある書物として引用し、金科玉条とする思考法を、引用文献的思考といいます。これが東洋医学を宗教にし、その発展を阻害する大きな要因となってきました。このような判断停止を即座に止め、東洋思想に基づいた人間理解を、事実に基づいて深めていくことが、われわれには必要です。
古典に書かれていることは所詮、文字を使って表現されたものであって、生命そのものではありません。言葉は生命そのものではありません。生命は生命そのものとともに、言語表現と隔絶したところに存在しています。臨床において我々が出会うものは、その生命そのものです。
古典に書かれていることは、その時代の思想状況を背景とした人間観を持っています。『黄帝内経』であれば、黄老道と讖緯(しんい)学説であり、『難経』であればそれに仏教が加わります。金元の四大家であれば宋代に完成度を高めた儒教である朱子学と宋代の道教である全真教がそれに加わり、江戸時代の日本の医家であれば陽明学―伊藤仁斎の古学と、その背景にある禅や神道がそこにさらに加わってきます。
このように文字として明確に書くと、各時代において別々の学問的な背景があるようにみえます。けれども実は、求道的な人々というものは、今皆さんが行っているように、その当時入手可能であったあらゆる文献を学び、真実を求めつづけているのです。そのような求道の魂のつらなりが東洋医学を形作ってきた、ということに着目して欲しいと思います。
真実とは何か。それは学問の根拠―エビデンスを求めつづけることです。私が明確に理解していることは、エビデンスは「ある」のではなく「求めつづける運動そのもの」であるということです。
真実に向かって努力することで始めて、我々は『黄帝内経』を書いた古人と同じ立ち位置に立つことができる。そう確信しているわけです。
東洋医学には数千年に及ぶ知識が集積されています。とても多くの書物となって、その知識が蓄積されているわけです。私はその多様な蓄積を尊崇しています。
けれども本当の古典とは、目の前にいる患者さんの身体です。書物に書かれている古典はそれを読み解くために作成された、古くからある参考書にすぎません。目の前にある患者さんの生命の動きを観ることを通じて、古典は検証されなおさなければなりません。
また、古典もその書かれた当時の思想や時代状況、書いた人物の個性によって、死生観の背景は異なります。ですから、その古典で何が書かれ何を参考にし何を捨てるかということは、現代に生き患者さんの身心を古典としてみることができる、われわれが取捨選択しなければならないこととなります。
古典を権威ある書物として引用し、金科玉条とする思考法を、引用文献的思考といいます。これが東洋医学を宗教にし、その発展を阻害する大きな要因となってきました。このような判断停止を即座に止め、東洋思想に基づいた人間理解を、事実に基づいて深めていくことが、われわれには必要です。
古典に書かれていることは所詮、文字を使って表現されたものであって、生命そのものではありません。言葉は生命そのものではありません。生命は生命そのものとともに、言語表現と隔絶したところに存在しています。臨床において我々が出会うものは、その生命そのものです。
古典に書かれていることは、その時代の思想状況を背景とした人間観を持っています。『黄帝内経』であれば、黄老道と讖緯(しんい)学説であり、『難経』であればそれに仏教が加わります。金元の四大家であれば宋代に完成度を高めた儒教である朱子学と宋代の道教である全真教がそれに加わり、江戸時代の日本の医家であれば陽明学―伊藤仁斎の古学と、その背景にある禅や神道がそこにさらに加わってきます。
このように文字として明確に書くと、各時代において別々の学問的な背景があるようにみえます。けれども実は、求道的な人々というものは、今皆さんが行っているように、その当時入手可能であったあらゆる文献を学び、真実を求めつづけているのです。そのような求道の魂のつらなりが東洋医学を形作ってきた、ということに着目して欲しいと思います。
真実とは何か。それは学問の根拠―エビデンスを求めつづけることです。私が明確に理解していることは、エビデンスは「ある」のではなく「求めつづける運動そのもの」であるということです。
真実に向かって努力することで始めて、我々は『黄帝内経』を書いた古人と同じ立ち位置に立つことができる。そう確信しているわけです。
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