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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

■むすび ―反存在論的に
『差異とは何か』〈分かること〉の哲学 船木亨著 世界思想社 刊 2014年7月30日 第1刷発行 「あとがき」より。
〔伴注:「差異の哲学」とは、私の言葉でいえば「気づきの哲学」になる。本書は、「気づき」の中身について哲学史に基づいて精緻に述べている書物である。〕
〔伴注:鍼灸師の体表観察において、惰性に流されないためにはいつも新鮮な「見る」姿勢をとり続けることが求められる。それは日常に流されず、新たな気持ちでいつも初めての患者さんを診るように見る、そういう心の位置を定めることである。その心の位置にない場合、「見た」ものを「見る」ことしかできない。「見た」ものをいくらたくさん集めても、新たに「見る」ことはできない。すでにあるもの―過去を集積しているだけでは、新しい今は生まれない、「生命にまなぶ」姿勢を取ることはできていない。「生命にまなぶ」ためにはいつも心を新たにして生命に向かう姿勢が必要だからだ。新しい心、気づきに気がつく姿勢こそが、生命にまなぶ必須の姿勢である。〕
〔伴注:昨日と同じ今日はない。「今」はいつも新たな血なまぐさい深淵を開いている。そこにすべての防具を投げ捨てて突入する。これができなければ気づきうるということはできない。防具は、言葉や過去の経験に基づいて湧き起こる感情を指している。〕

■〔伴注:惰性(同一性の思考)から気づき(差異の哲学)へ。そして感じることの再発見へ〕
298P
同一性の思考とは、存在、実在、実体、本質といった形而上学的諸概念を使って、ただ眼のまえにある〈もの〉〔伴注:〈もの〉とは、あるがままにある「相互主観性の実体」のことを意味している〕〔伴注:「相互主観性」とは、私が捉えたものと同じものをあなたが捉えているというときの、私が捉えたものとあなたが捉えたもののことである。捉えたものの実体は実は同じとは言えない―すなわち異なる。その新鮮な今を少し捨てることによって、主観が交わる。ここに「相互」という言葉をつけた「主観性」が成立し、共有できそうな言葉が生まれる。〕ではなく、無時間的ないし普遍的にあるものによって、経験を「あるもの」と「あらぬもの」に分類して説明しようとする思考である。それが、近代においては、言語の指し示す権能を活用して、ひとびとの身体を事物のようなものへと形成し、機械的、定型的な行動に閉じ込めて、「わたし」を孤立した主観として思考させるようにした〔伴注:そのようにして個々人が相互主観性のなかから独立して粒立ち、孤独の牢屋に入りこんでしまう。〕―――そのようにして、〈もの〉を思考させない299Pようにしているのである。〔伴注:ここでいう思考のなかには、頭の中で考えるという意味だけではなく、さらに、見て感じることを包含している。言葉を超えて存在そのものに肉薄することこそが、思考の本体である。それに対して惰性で生きること、すなわち機械的、定型的な行動に閉じこもるということは、思考停止させられているということである。このことを船木亨は同一性の思考と呼んでいる。書物を死物である。活物としてこれを読むには、患者さんのあるがままの生をあるがままに見ることによって、書物を点検していく姿勢が必要なのである。〕

それに対するわたしの主張はシンプルである。言葉で与えられる諸事物は、われわれが生きている〈もの〉のことではない。〔伴注:すなわち、言葉は表現方法のひとつにすぎない。われわれが生きている〈もの〉を何とか表現しようとして生まれたもののひとつが、言葉なのである。〕われわれの宇宙、世界、自然、社会は、同一性に由来する事物相互の見かけの差異に覆われてしまっているが生きることを真に理解するためには、特異な差異、差異それ自身を知っていなければならない。〔伴注:言葉を超えて存在そのものに肉薄する必要がある。自分が現在もっている言葉を超えた、全く新しい「気づき」を得るほどに〕

それが「差異の哲学」なのであるが、それは何であれ同一性にのみ基づけようとする日常の思考〔伴注:すなわち、日常という名の惰性。言葉で存在を切り取って表現してしまうことによって、気づきへの思考を停止させるもの。すなわち日常の思考〕を批判する哲学である。いたるところに隠蔽された特異な差異を蒸し返し、〔伴注:特異な差異とは、言葉を超えて存在そのものに気づくこと。〕記憶の詰まっている宿命的な身体〔伴注:記憶は言葉によって分類され潜在化された無意識の構造である。そのため、「宿命的な身体」と表現している。〕から身をもぎ放つことを勧める哲学である。言葉が差異を飼いならし、特異な差異を追放してひとを事物の世界に住まわせているわけだが、それとは逆に、言葉が差異を掬いだし、感じられる生の世界を人々に発見させる―――それも不可能ではないであろう。〔伴注:この言葉は、船木亨が自身に対して述べている、哲学者あるいは哲学の存在理由。いわば、存在のリアリティーに気づくことによって開けて来る社会を招来しようと船木亨はしている。しかしさて、敵は巨大な無知、怠惰、惰性、習慣的な思考である。ここには、積み重ねられた古典の群れと、それをパターン化して読み解こうとする中医学の常識とがある。沢田健が、「書物は死物である」としながらも、その「書物」を読み砕く先に活物である生命を見ていこうとした決然たる覚悟を見なければならない。すなわちパターン化した読み方では古典を読み解くことはできない。生命の書として古典を読まなければならないということである。文字の先に生命がある。その生命を読む、理解できるところまで、文字を言葉を超えていかなければならない。〕

生の世界とは、匿名で生きている感覚と振舞の世界である。〔伴注:言葉を超え、言葉の介入を許さないため、匿名という言葉を用いている。しかしこれは、言葉を超えることによって真の言葉の使い方を手にした、詩的な世界のことである。〕(現象学のいうような)真なる認識のための下絵のようなものではなく、ここそこに息づいていて、われわれの言葉と振舞を揺さぶり賦活する。〔伴注:ここでの賦活という言葉の新鮮な響きに耳を澄ますべきである。賦活とは新たに生まれること。生命そのものを新たに捉えなおすことである。〕それらは〈いま〉の推移からはじまって、時間の差異、感覚の差異、振舞の差異、言葉の差異の体系の、それぞれに特異な差異のもとにある。差異の経験とは、それらに気づくことにほかならない。〔伴注:気づくことによって起こるこの経験のことを私は、精神のジャンプと呼んでいる。船木亨はそのことを、哲学史の言語体系に従って「差異」と呼んでいる。〕

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