fc2ブログ

一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

〔伴注:生命を見るわれわれにとって、エビデンスは「気づき」にある〕

300P


特異な差異を発見することが、「分かること」の実践である。ここでの「分かる」とは、「これこそそのものだ」というように、〈もの〉にはっとさせられることである。同一性に規定された諸事物についての言説を拒絶して、異なるもろもろの〈もの〉を、ただ異なると感じ、知ることである。〔伴注:ただ異なると感じ、知るという精神的な営為は、日々研ぎ澄まされていく。それによって、ただ異なると感じ、知るという精神的な営為そのものが変化していく。いわば、気づきの日々が積み重ねられることによって「次元の異なる存在」に自分がなっているわけである。〕

〔伴注:真実の宗教は、この気づきを養うものである。それは信仰を排除するものであるとも言える。しかし、信仰を通じてはじめて気づきの世界に入ることができるとも言える。ここが大問題となる。自分のすでにもっている概念―思いこみ―「常識」の枠組から離脱することは、それほどたいへんなことなのだ。信仰という力を使ってはじめて「自分」から救い出される道もある。しかし、さらに、その信仰そのものをも捨てることができなければ、「気づき」の世界に入ることはできない。なぜなら自分自身以外に世界に気づくことができるものは存在しないのだから。自分を捨て再度自分を基盤にすることを獲得しなおす。自分を磨き続けるところにしか、新たな道―新しい自己を獲得し続ける方法はない。「気づき」に入る人はこの深い孤独と絶望を覚悟しなければならない。それほどまでに自己を超えることが困難であるということを自覚する必要がある。〕

〔伴注:真実の宗教とエセ宗教の違いは、自覚をうながすために信仰を使うのか(真の宗教)、信仰させることを通じて教えを記憶させるのか(エセ宗教)の違いにある。永遠の気づきのなかに自己を置くということは、自己否定に通じる永遠の不安定のなかに安住を見いだすということでもある。その不安定に対して安易な安定と協調とを忍びこませるものが、エセ宗教である。信仰の暴力によって他者を否定していく傲慢さを、彼らエセ宗教家はもつこととなるのである。しかし実はこのような傲慢さ―暴力―は、いわゆる社会常識―あたりまえ―のなかに深く強く潜んでいるということはいうまでもない。人はそれほどまでにあたりまえの今に安住したがるものなのである。自身が培って済んでいる今のあたりまえを疑うことができるか。そのことが今を磨き、自己を毎瞬の「気づきの場」に存在させる源となる心の位置なのである。〕

〔伴注:このように「気づき」ということについて語ると、宗教的であるというレッテルを貼る人がいる。宗教を超える道、信仰を超える道を道とすると述べているにも関わらず、彼らにとって自分が理解できないことは宗教的なことなのである。彼らのその惰性の宗教―無自覚の常識に安住し生命にレッテルを貼って満足する傲慢な宗教―こそ打破されなければならないものである。そこを超えることができなければ、到底「真の理解」「気づき」には辿り着くことができない。すなわち体表観察すらまともにできない、頭でっかちの鍼灸師ができあがるのである。重要なことは言葉にあるのではなく、言葉を超えたリアリティー―生命そのものをいかにしてつかみ表現するのかというところにある。表現された言葉は蓄積されてゆき、理屈を考えるひとびとによってまとめられてゆく。しかしその言葉の群れを通じてつかまなければならないものは実は、生命そのものの動きなのである。〕
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://1gen.blog101.fc2.com/tb.php/265-7424d981

この人とブロともになる