一元流鍼灸術。この名前でもっとも大切なものは、一元という言葉です。なぜこの名前を用いたのかというと、陰陽を語り五行を語り中医学を語る人々はいますけれども、一を語ることがもっとも大切であるということを教えてくれたところは私が学んだ限りなかったためです。
一すなわち気一元という言葉そのものはこれまでの中医学や朱子学などで出てきてはいました。そしてかの張景岳もその有名な「景岳全書」の冒頭の伝忠録においてそのことを強調してはいるのですが、目先の治療にとらわれて書物を読んでいる人々にはその大切さが理解されていないようなのです。そのためこの「一」という言葉を用いて当流の名前としました。この名前を知っているだけで、徐々に東洋医学の中心に近づくことができるように、気一元の生命のあり方を観ているのだという基本に気づけるようにと配慮しているわけです。
気一元の生命の変化、あるいは一元の気がその形を変えあるいはバランスを崩すことの中に病気があるということ。これはすなわちそのまま、今生きている生命を観ている者―すなわち我々施術者にとって、その統合された生命こそが当たり前であり、「統合された生命の観点から観ない限りその生命の有り様を観ることはできない」ということを意味しています。
西洋医学が陥っていた機械的な人間観に通じる問題が、東洋医学においてもありました。そしてそれは陰陽―五行という抽象的概念を操作しているものであるため、西洋医学よりもたちの悪い「妄想」となってしまいました。気一元の生命を観ているという視点から始めるのではなく、陰陽や五行という枠組みで症状を機械的に分類することで、病気が理解でき治療ができると思い込んでしまっているのです。
ただ、根本的な生命観を問うことなく東洋医学の歴史は経過してきたため、このおかしな病気の把握方法は逆に大きな問題となりませんでした。このことを問題にするよりもはるかに大きな問題が実は東洋医学にはあったとも言えるのかもしれません。
それは、症状に対して処置をするという民間療法的な治療の積み重ねによって起こったものです。症状以前に人間があると考えて、人間全体を観ようとすることへの姿勢の脆弱さによるものでした。
四診合参に基づいた弁証論治の目的は、目の前にいる人間の生命状況を把握することです。生命の前に病気があるのではなく、生命が厳然と存在しているから病気があり症状が出ているのです。生命全体を見るからこそ、陰陽―五行という観点からの把握方法が生きてきます。
けれどもそのことが理解できず、「弁証論治は症状に対して行うもの」とまで述べてしまう「鍼灸名人」〔注:「上下左右の法則」序文:藤本蓮風著〕まで現れることとなってしまったのです。
一元流鍼灸術における弁証論治は患者さんの生命の状態を記述することに注力します。これを「生命の弁証論治」と呼んでいます。患者さんの生命状況の理解の上に初めて病状の理解があります。
もし弁証論治というものにまじめに取り組んでおられたなら、この生命の弁証論治に到達せざるを得ないはずです。なぜなら、病気は生命の一時期のバランスの小さな崩れにすぎないからです。
そして東洋医学を特徴付けている養生術というものは、この病気となる以前のかすかな生命のバランスの崩れを調整するためにあり、この生命の弁証論治によらなければ患者さんの状態を把握することなどできないためです。
西洋医学が現代においてその病を治療するのに苦しんでいるように、東洋医学も苦しんでいます。医学の本質は養生指導にあるということに気がつき、今目の前にある症状は生命力の現れの一形態にすぎないという基本的な理解の下、一元流ではどのようにしてそのような生命を把握しようとしているのかということがここでは述べられています。
本書の内容は、一元流鍼灸術の勉強会の仲間たちへのメッセージを中心とし、そこから派生した質疑応答などが、現時点(2013年末)までまとめなおされています。
全ては、
学びつづけていくための心の姿勢を説いた「学ぶ」、
学びつづけていくための資料の集め方を説いた「観る」、
学びつづけた蓄積を社会に還元するための「治療する」
という、三項目に分けられています。
冒頭の「一元流鍼灸術の概要」は、一元流鍼灸術をご存じない方のためにまとめたもので、もともと2006年の中医学大交流会で発表した原稿に少し手を入れたものです。
この書によって生命を応援する弁証論治を作成するための、実際的な方法を入手することができるでしょう。
一すなわち気一元という言葉そのものはこれまでの中医学や朱子学などで出てきてはいました。そしてかの張景岳もその有名な「景岳全書」の冒頭の伝忠録においてそのことを強調してはいるのですが、目先の治療にとらわれて書物を読んでいる人々にはその大切さが理解されていないようなのです。そのためこの「一」という言葉を用いて当流の名前としました。この名前を知っているだけで、徐々に東洋医学の中心に近づくことができるように、気一元の生命のあり方を観ているのだという基本に気づけるようにと配慮しているわけです。
気一元の生命の変化、あるいは一元の気がその形を変えあるいはバランスを崩すことの中に病気があるということ。これはすなわちそのまま、今生きている生命を観ている者―すなわち我々施術者にとって、その統合された生命こそが当たり前であり、「統合された生命の観点から観ない限りその生命の有り様を観ることはできない」ということを意味しています。
西洋医学が陥っていた機械的な人間観に通じる問題が、東洋医学においてもありました。そしてそれは陰陽―五行という抽象的概念を操作しているものであるため、西洋医学よりもたちの悪い「妄想」となってしまいました。気一元の生命を観ているという視点から始めるのではなく、陰陽や五行という枠組みで症状を機械的に分類することで、病気が理解でき治療ができると思い込んでしまっているのです。
ただ、根本的な生命観を問うことなく東洋医学の歴史は経過してきたため、このおかしな病気の把握方法は逆に大きな問題となりませんでした。このことを問題にするよりもはるかに大きな問題が実は東洋医学にはあったとも言えるのかもしれません。
それは、症状に対して処置をするという民間療法的な治療の積み重ねによって起こったものです。症状以前に人間があると考えて、人間全体を観ようとすることへの姿勢の脆弱さによるものでした。
四診合参に基づいた弁証論治の目的は、目の前にいる人間の生命状況を把握することです。生命の前に病気があるのではなく、生命が厳然と存在しているから病気があり症状が出ているのです。生命全体を見るからこそ、陰陽―五行という観点からの把握方法が生きてきます。
けれどもそのことが理解できず、「弁証論治は症状に対して行うもの」とまで述べてしまう「鍼灸名人」〔注:「上下左右の法則」序文:藤本蓮風著〕まで現れることとなってしまったのです。
一元流鍼灸術における弁証論治は患者さんの生命の状態を記述することに注力します。これを「生命の弁証論治」と呼んでいます。患者さんの生命状況の理解の上に初めて病状の理解があります。
もし弁証論治というものにまじめに取り組んでおられたなら、この生命の弁証論治に到達せざるを得ないはずです。なぜなら、病気は生命の一時期のバランスの小さな崩れにすぎないからです。
そして東洋医学を特徴付けている養生術というものは、この病気となる以前のかすかな生命のバランスの崩れを調整するためにあり、この生命の弁証論治によらなければ患者さんの状態を把握することなどできないためです。
西洋医学が現代においてその病を治療するのに苦しんでいるように、東洋医学も苦しんでいます。医学の本質は養生指導にあるということに気がつき、今目の前にある症状は生命力の現れの一形態にすぎないという基本的な理解の下、一元流ではどのようにしてそのような生命を把握しようとしているのかということがここでは述べられています。
本書の内容は、一元流鍼灸術の勉強会の仲間たちへのメッセージを中心とし、そこから派生した質疑応答などが、現時点(2013年末)までまとめなおされています。
全ては、
学びつづけていくための心の姿勢を説いた「学ぶ」、
学びつづけていくための資料の集め方を説いた「観る」、
学びつづけた蓄積を社会に還元するための「治療する」
という、三項目に分けられています。
冒頭の「一元流鍼灸術の概要」は、一元流鍼灸術をご存じない方のためにまとめたもので、もともと2006年の中医学大交流会で発表した原稿に少し手を入れたものです。
この書によって生命を応援する弁証論治を作成するための、実際的な方法を入手することができるでしょう。
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コメント
本書とありますが
この文章のなかには、本書という記載がありますけれども、出版されてはいません。
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