風邪の内陥は裏証か
> >>「風邪との闘争が表面化する」というのは、「内陥していると思われる風邪が
> >>症状(喉が痛くなったり、鼻水が出たり、発熱したり)として出てきたら」、
> >>風邪に対して治療の手を入れるということでしょうか?
> >
> > ●はい。正気が充実し、表に邪正闘争の位置が移動した時
> > に、反応の出てい>るツボ(太陽経)を使って風寒邪を散ら
> > すことができれば、と考えています。
>
> 初診の段階で大椎、陶道、風門に発汗が診られることから、内陥している風邪
> かもしくは新しく引いた風邪かわかりませんが、初診現在の時点で風邪との邪
> 正闘争が経穴のレベルでは窺えるのかなと思ったのです。
>
> なので風邪の治療も脾腎の補いと同時に行ってもいいのかなと感じたのです。
> ただ、これは治療をされる方の考え方の違いなのかとも思い、私にはまだよく
> 分かりませんσ(^_^;
ここには、いくつかの大切な問題が内包されていますでの少し詳しく解説してみようと思います。
まず、風邪の内陥の発想の経緯については以前、以下のように述べています。
「この病因病理で大切な課題となった「風邪の内陥」のことについては、よくよく考えを究めていただきたいと思います。これはいわゆる痺証(リュウマチなど)―風寒湿の邪気が内生の邪として自己の生命力を攻撃している状態―を考究していくことからそのヒントをつかんだもので、一元流独特の概念です。いわば、痺証という病気になる以前の未病を解説しているものとなります。」
風邪の内陥という概念は、風寒の外邪に罹患していながらすぐにはそれを追い出しきることができず、風寒の外邪がいつまでも居座り生命力を損傷し続けている状態のことを指しています。これが悪化して内湿などの他の邪気と絡み合ってさらに生命力を損傷するようになると、痺証になっていくわけです。
では、内陥している風邪はいったい、病位としてはどこにあたるのだろうかということが次の問題となります。まだ生命力を圧迫している程度で一般的な生活は侵されてはいず自覚症状も出ていない段階です。ただ、生命の弁証論治をたてる中から、体表観察をしていく中からのみ気づくことができるものです。
《傷寒論》で裏証というと二便の異常があり食欲に影響が出ている状態ということになりますから、裏証とは言えません。往来寒熱を伴う半表半裏でもありません。あえて言えば太陽表証の類ということになるでしょう。
それではなぜさっさと追い出すことができないのでしょうか?ここが問題とすべきところです。追い出しきるまでの充実した生命力はない、と言わざるを得ません。けれども逆の方向からみると、邪気を内陥させるほど生命力が虚してはいないとも言えるわけです。
では邪気を追い出すにはどうすればよいのでしょうか。その正邪の闘争部位を見定めて、その部位の生命力すなわち正気を補うようにすればよいということになります。
この正邪の闘争部位の見出し方には大きく分けて二種類あります。ひとつは術者がその四診の能力を駆使して定めるものです。もうひとつは全体の生命力を高めることによって患者さん自身の生命力で邪気を見出しそれを排泄するように導くということです。
Kさんの「正気が充実し、表に邪正闘争の位置が移動した時に、反応の出ているツボ(太陽経)を使って風寒邪を散らすことができれば」という言葉の問題は、すでに衛気が弱って風寒の外邪の内陥を赦している患者さんの、「正気が充実して風邪の症状が出るのか」「再感して風邪を引いているのか」どちらなのか区別がつきにくいということにあります。別の角度からいえば、「寒邪が内陥している徴候が経穴において明瞭なのに、正気の充実を待つ必要があるのだろうか」というFさんの疑問に行き当たります。
そこで考えるべきことが実はもう一つあります。それは、《傷寒論》の承気湯類の解説の中で、裏を攻めることが早すぎて風寒の外邪を内陥させてしまうことを忌む記載がたくさんあることです。Kさんの頭の中にはこれがあったために、正気を十分に補って表証であることが確認された後に表を攻めるべきなのではないか、という記載がなされたのでしょう。
けれどもよく考えてみると、承気湯類は邪気を排泄するために生命力を裏に集める処方です。承気湯類を用いて生命力を裏に集めて大便として抜いてしまうと、それに乗じて表(あるいは半表半裏)に残っている風寒の外邪が内陥し、複雑な病を起こす危険性があるとして張仲景は繰り返し注意を与えているわけです。(漢方薬を用いると、集めた生命力以上に、排便を通して生命力が抜ける可能性があるということを経験的にして知っていたため、このような厳しい注意を張仲景は行ったのでしょう。)
それに対して鍼灸治療で裏を建てるとか脾腎を補うという場合になすことは、経穴に対して処置をして裏の生命力を補うことです。それによって全身のバランスを調えて生命力全体を充実させようとします。ということは、漢方薬を用いて行う《傷寒論》の発想と鍼灸治療の発想とはここでかなり異なることとなるわけです。
《傷寒論》は汗吐下を用いて外邪を排泄することを目標としていますので、その邪気の位置に従って用いる処方を決めていきます。それに対して鍼灸は生命力を充実させるということを基本とし、その生命力を正邪の闘争部位すなわち経穴の反応が出ている部位に集め、そこにおける生命力を補うことに主眼があるわけです。
このように考えていくと、Fさんがいわれている言葉「初診現在の時点で風邪との邪正闘争が経穴のレベルでは窺えるのかなと思ったのです。なので風邪の治療も脾腎の補いと同時に行ってもいいのかなと感じたのです。」という言葉の意味がよく理解できることでしょう。
ということで、症状が出てくることを待つまでもなく、すでに出ている経穴に対して処置をしていく方が、未病を治すという東洋医学本来の目標に合致することになると私は考えています。
> >>「風邪との闘争が表面化する」というのは、「内陥していると思われる風邪が
> >>症状(喉が痛くなったり、鼻水が出たり、発熱したり)として出てきたら」、
> >>風邪に対して治療の手を入れるということでしょうか?
> >
> > ●はい。正気が充実し、表に邪正闘争の位置が移動した時
> > に、反応の出てい>るツボ(太陽経)を使って風寒邪を散ら
> > すことができれば、と考えています。
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> 初診の段階で大椎、陶道、風門に発汗が診られることから、内陥している風邪
> かもしくは新しく引いた風邪かわかりませんが、初診現在の時点で風邪との邪
> 正闘争が経穴のレベルでは窺えるのかなと思ったのです。
>
> なので風邪の治療も脾腎の補いと同時に行ってもいいのかなと感じたのです。
> ただ、これは治療をされる方の考え方の違いなのかとも思い、私にはまだよく
> 分かりませんσ(^_^;
ここには、いくつかの大切な問題が内包されていますでの少し詳しく解説してみようと思います。
まず、風邪の内陥の発想の経緯については以前、以下のように述べています。
「この病因病理で大切な課題となった「風邪の内陥」のことについては、よくよく考えを究めていただきたいと思います。これはいわゆる痺証(リュウマチなど)―風寒湿の邪気が内生の邪として自己の生命力を攻撃している状態―を考究していくことからそのヒントをつかんだもので、一元流独特の概念です。いわば、痺証という病気になる以前の未病を解説しているものとなります。」
風邪の内陥という概念は、風寒の外邪に罹患していながらすぐにはそれを追い出しきることができず、風寒の外邪がいつまでも居座り生命力を損傷し続けている状態のことを指しています。これが悪化して内湿などの他の邪気と絡み合ってさらに生命力を損傷するようになると、痺証になっていくわけです。
では、内陥している風邪はいったい、病位としてはどこにあたるのだろうかということが次の問題となります。まだ生命力を圧迫している程度で一般的な生活は侵されてはいず自覚症状も出ていない段階です。ただ、生命の弁証論治をたてる中から、体表観察をしていく中からのみ気づくことができるものです。
《傷寒論》で裏証というと二便の異常があり食欲に影響が出ている状態ということになりますから、裏証とは言えません。往来寒熱を伴う半表半裏でもありません。あえて言えば太陽表証の類ということになるでしょう。
それではなぜさっさと追い出すことができないのでしょうか?ここが問題とすべきところです。追い出しきるまでの充実した生命力はない、と言わざるを得ません。けれども逆の方向からみると、邪気を内陥させるほど生命力が虚してはいないとも言えるわけです。
では邪気を追い出すにはどうすればよいのでしょうか。その正邪の闘争部位を見定めて、その部位の生命力すなわち正気を補うようにすればよいということになります。
この正邪の闘争部位の見出し方には大きく分けて二種類あります。ひとつは術者がその四診の能力を駆使して定めるものです。もうひとつは全体の生命力を高めることによって患者さん自身の生命力で邪気を見出しそれを排泄するように導くということです。
Kさんの「正気が充実し、表に邪正闘争の位置が移動した時に、反応の出ているツボ(太陽経)を使って風寒邪を散らすことができれば」という言葉の問題は、すでに衛気が弱って風寒の外邪の内陥を赦している患者さんの、「正気が充実して風邪の症状が出るのか」「再感して風邪を引いているのか」どちらなのか区別がつきにくいということにあります。別の角度からいえば、「寒邪が内陥している徴候が経穴において明瞭なのに、正気の充実を待つ必要があるのだろうか」というFさんの疑問に行き当たります。
そこで考えるべきことが実はもう一つあります。それは、《傷寒論》の承気湯類の解説の中で、裏を攻めることが早すぎて風寒の外邪を内陥させてしまうことを忌む記載がたくさんあることです。Kさんの頭の中にはこれがあったために、正気を十分に補って表証であることが確認された後に表を攻めるべきなのではないか、という記載がなされたのでしょう。
けれどもよく考えてみると、承気湯類は邪気を排泄するために生命力を裏に集める処方です。承気湯類を用いて生命力を裏に集めて大便として抜いてしまうと、それに乗じて表(あるいは半表半裏)に残っている風寒の外邪が内陥し、複雑な病を起こす危険性があるとして張仲景は繰り返し注意を与えているわけです。(漢方薬を用いると、集めた生命力以上に、排便を通して生命力が抜ける可能性があるということを経験的にして知っていたため、このような厳しい注意を張仲景は行ったのでしょう。)
それに対して鍼灸治療で裏を建てるとか脾腎を補うという場合になすことは、経穴に対して処置をして裏の生命力を補うことです。それによって全身のバランスを調えて生命力全体を充実させようとします。ということは、漢方薬を用いて行う《傷寒論》の発想と鍼灸治療の発想とはここでかなり異なることとなるわけです。
《傷寒論》は汗吐下を用いて外邪を排泄することを目標としていますので、その邪気の位置に従って用いる処方を決めていきます。それに対して鍼灸は生命力を充実させるということを基本とし、その生命力を正邪の闘争部位すなわち経穴の反応が出ている部位に集め、そこにおける生命力を補うことに主眼があるわけです。
このように考えていくと、Fさんがいわれている言葉「初診現在の時点で風邪との邪正闘争が経穴のレベルでは窺えるのかなと思ったのです。なので風邪の治療も脾腎の補いと同時に行ってもいいのかなと感じたのです。」という言葉の意味がよく理解できることでしょう。
ということで、症状が出てくることを待つまでもなく、すでに出ている経穴に対して処置をしていく方が、未病を治すという東洋医学本来の目標に合致することになると私は考えています。
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