病因病理の作成法
人間理解ということを東洋医学的に表現していく場面においてもっとも大切なものがこの病因病理を作成するということとなります。
ここで、【一元流鍼灸術の門】の『気一元の医学』の冒頭の言葉が思い浮かびます。すなわち、患者さんの身心という『言葉の存在しない未整理の混沌たる状況の真っ只中に立ち』、四診を用いてその『存在の声を聞』き、聖人の作り上げた陰陽五行という言葉に従って人間理解への端緒を得、どのように理解したのか病因病理で表現していくわけです。
◆解決法を決め付けない:最も確かそうな事実を核として論理的な整合性を作っていく
聖人の言葉に従って五臓の弁別をするわけですけれども、実際に集めた情報は、その正確さにおいてさまざまなレベルが存在することとなります。これは生物をそのまま扱うのですから当然のことです。緩み揺らぎの中で情報を取り扱う理由はこのためです。そして、緩み揺らぎの中で、なお、確かな位置を占めているものを核としてその他の情報を統合していきます。
◆時系列に沿って大枠における間違いがないように何種類かのパターンを作って検討してみる。
統合していく中で論理に迷ったり、情報が曖昧なためにさまざまな角度から把えられるような場合には、別のパターンで考えを進めてみることが大切です。どの情報があればこちらのパターン、別の情報が入ればこちらのパターンという風に考え定めておくと、改めて問診する際により気をつけて聞くべき点に気が付きます。また、実際治療をしていく中で正しいパターンの病因病理を見つけていくこともできるようになります。
◆自信のない情報は副情報とし、判断の補助にとどめる
ですから、得た情報のすべてを盛り込む必要は実はありません。情報の価値の低いものには、捨てるべきものもあります。この情報の価値の高低を見極める力が、病因病理の作成においては非常に大切なこととなります。
◆曖昧であることを恐れる必要はない。正確な弁証論治であるとして固く信じるほうが危険。
人間は生きており、日常生活があり、その中でさまざまな経験をします。病因病理といい弁証論治というものは、その生活を仮に言葉で書きとめたものにすぎないわけですから、日常生活が変化した場合にはそれにしたがって書き換えられる必要があります。ですから、どんなに熱心に書き上げたとしても所詮それで人生を規定することはできないものと観じ、緩み揺らぎをもって柔らかくそれを手にしておくだけにしておくことです。これこそが唯一絶対の正確な弁証論治であるとして患者さんを規定してしまうと、かえってその実態から乖離した治療やアドバイスを行ってしまう可能性もあります。変化しない部分はどこか、変化した部分はどこか、変化はどの深さまで及んでいるのかなど、状況の変化に合わせてしなやかにしかしゆるぎなく診方を合わせていけるようにします。
人間理解ということを東洋医学的に表現していく場面においてもっとも大切なものがこの病因病理を作成するということとなります。
ここで、【一元流鍼灸術の門】の『気一元の医学』の冒頭の言葉が思い浮かびます。すなわち、患者さんの身心という『言葉の存在しない未整理の混沌たる状況の真っ只中に立ち』、四診を用いてその『存在の声を聞』き、聖人の作り上げた陰陽五行という言葉に従って人間理解への端緒を得、どのように理解したのか病因病理で表現していくわけです。
◆解決法を決め付けない:最も確かそうな事実を核として論理的な整合性を作っていく
聖人の言葉に従って五臓の弁別をするわけですけれども、実際に集めた情報は、その正確さにおいてさまざまなレベルが存在することとなります。これは生物をそのまま扱うのですから当然のことです。緩み揺らぎの中で情報を取り扱う理由はこのためです。そして、緩み揺らぎの中で、なお、確かな位置を占めているものを核としてその他の情報を統合していきます。
◆時系列に沿って大枠における間違いがないように何種類かのパターンを作って検討してみる。
統合していく中で論理に迷ったり、情報が曖昧なためにさまざまな角度から把えられるような場合には、別のパターンで考えを進めてみることが大切です。どの情報があればこちらのパターン、別の情報が入ればこちらのパターンという風に考え定めておくと、改めて問診する際により気をつけて聞くべき点に気が付きます。また、実際治療をしていく中で正しいパターンの病因病理を見つけていくこともできるようになります。
◆自信のない情報は副情報とし、判断の補助にとどめる
ですから、得た情報のすべてを盛り込む必要は実はありません。情報の価値の低いものには、捨てるべきものもあります。この情報の価値の高低を見極める力が、病因病理の作成においては非常に大切なこととなります。
◆曖昧であることを恐れる必要はない。正確な弁証論治であるとして固く信じるほうが危険。
人間は生きており、日常生活があり、その中でさまざまな経験をします。病因病理といい弁証論治というものは、その生活を仮に言葉で書きとめたものにすぎないわけですから、日常生活が変化した場合にはそれにしたがって書き換えられる必要があります。ですから、どんなに熱心に書き上げたとしても所詮それで人生を規定することはできないものと観じ、緩み揺らぎをもって柔らかくそれを手にしておくだけにしておくことです。これこそが唯一絶対の正確な弁証論治であるとして患者さんを規定してしまうと、かえってその実態から乖離した治療やアドバイスを行ってしまう可能性もあります。変化しない部分はどこか、変化した部分はどこか、変化はどの深さまで及んでいるのかなど、状況の変化に合わせてしなやかにしかしゆるぎなく診方を合わせていけるようにします。
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