〔注:ここではひとことで儒学と呼んでいますけれども、漢代の儒
学と宋代の儒学と神大の儒学ではその内容がとても大きく異な
ります。
そして、江戸時代に儒学に括られるものは、官学である朱子学
と、民間から発生した学問である伊藤仁斎の古学、その弟子筋
にあたる荻生徂徠の古文辞学、朱子学と陽明学との折衷の学
問などさまざまに分類されています。
けれどもここに触れることは繁雑になりますので各自調べてみ
てください。〕
> 「朱子学のその後」みたいな陽明学も禁止してたのですか?
> それは意外でした。それは少し臭いですね…。
陽明学は、朱子学の理解から出ていますが、王陽明の悟りを基
本として、朱子学が実戦的なものになっています。
朱子学が人民を管理するための官僚のための学問であるのに
比し、自らの心情に立脚するなど自己陶冶に努める側面が強い
ものです。
伊藤仁斎の古学は論語研究から始まります。ただ、論語を言葉
として読むだけではなく、実際に孔子がそこで何を思い感じ考え
ていたのかというところまで、探究しています。ここが大切なとこ
ろとなります。
古学ではいわば、孔子という聖人の心に近づくために、自分自
身の心に照らしながら『論語』を学んでいったわけです。一元流
鍼灸術でよく使われる言葉で表現するなら、言葉を越えて孔子
そのものに肉薄しようとした儒学、それが古学であるということ
になります。
当然その過程で、自己の心の有様を点検するという行為が入り
ます。そして自己を改革することによって聖人の心に近づこうと
するわけです。
そういう角度で論語という書物を読んでいたわけです。
古学の創始者である伊藤仁斎は、朱子が集め解釈した儒教の
オーソドックスな書物を、リアルな自己に照らしつつ読み直して
いったわけです。
この同じ作業を伝統医学において行うということが、一元流鍼
灸術がおこなっていることであり、目標としているところです。中
医学という古典を集めた観念的な言葉で語られた書物を、治療
というリアルな世界のなかで読み直していこうとしているわけで
す。
ちなみに、『養生訓』(1712年刊)を書いた貝原益軒(1630
年~1714年)が、晩年、自身の儒学思想をまとめるまで、気
一元論に触れることができませんでした。正学である朱子学の
圧力があったためです。
福岡藩のような江戸から遠い地域であっても、官僚の学問にそ
のような圧力があったわけです。
> 伴先生の論文「日本型東洋医学の原点 」に出ていた、林羅山という人が
> そのあたりの黒い思惑に関係しているのでしょうか?
林羅山は、幕府の威光を借りて朱子学を正統な学として広めよ
うとしただけだと思います。
〔注:ここからは、人民を統治するための学問である、あるいは
そのように利用された朱子学の内側からの解説となります。〕
平和というのは秩序があるということを意味しています。そして
秩序のなかには、人々がその地位におけるあるべき姿(理)で
存在している(気)という自覚が必要です。自分のノリを越えず、
他者を傷つけないという、「社会の相互関係における養生」のよ
うな節制が、そこには必要となります。
戦国時代―下克上なんでもありの自由な世界から、秩序ある平
和の世界への大転換の思想の基礎を、徳川家康は朱子学のな
かに見出したとも言えるでしょう。
朱子の著書を読んでみると、彼がいかに謙虚で、いかに丁寧に
学問を築いているかということが理解できます。孔子が戦国時
代に平和のあり方を希求した世界を構築したように、儒教は秩
序というもののあり方を、仁すなわち愛とその表現としての礼の
側面から、構築していったものです。
自分自身を戒めるための礼という側面が、あるべきあり方とい
う理念が構築されることによって、他者をも縛る法になり徐々に
強制力を持つようになるのは、現代社会でも同じことです。
自身の身を守ると同時に他者をも罹患させまいという道徳的な
要請であったマスクの使用や罹患後の謹慎(礼)が、いつのま
にか法で強制されるような事態になっていく(法)ようなものです。
ただその根本にある思いは、現代的な言葉でいえば愛に基づく
平和な理想社会を作り上げたいという願いであったということは、
確認しておきたいと思います。
学と宋代の儒学と神大の儒学ではその内容がとても大きく異な
ります。
そして、江戸時代に儒学に括られるものは、官学である朱子学
と、民間から発生した学問である伊藤仁斎の古学、その弟子筋
にあたる荻生徂徠の古文辞学、朱子学と陽明学との折衷の学
問などさまざまに分類されています。
けれどもここに触れることは繁雑になりますので各自調べてみ
てください。〕
> 「朱子学のその後」みたいな陽明学も禁止してたのですか?
> それは意外でした。それは少し臭いですね…。
陽明学は、朱子学の理解から出ていますが、王陽明の悟りを基
本として、朱子学が実戦的なものになっています。
朱子学が人民を管理するための官僚のための学問であるのに
比し、自らの心情に立脚するなど自己陶冶に努める側面が強い
ものです。
伊藤仁斎の古学は論語研究から始まります。ただ、論語を言葉
として読むだけではなく、実際に孔子がそこで何を思い感じ考え
ていたのかというところまで、探究しています。ここが大切なとこ
ろとなります。
古学ではいわば、孔子という聖人の心に近づくために、自分自
身の心に照らしながら『論語』を学んでいったわけです。一元流
鍼灸術でよく使われる言葉で表現するなら、言葉を越えて孔子
そのものに肉薄しようとした儒学、それが古学であるということ
になります。
当然その過程で、自己の心の有様を点検するという行為が入り
ます。そして自己を改革することによって聖人の心に近づこうと
するわけです。
そういう角度で論語という書物を読んでいたわけです。
古学の創始者である伊藤仁斎は、朱子が集め解釈した儒教の
オーソドックスな書物を、リアルな自己に照らしつつ読み直して
いったわけです。
この同じ作業を伝統医学において行うということが、一元流鍼
灸術がおこなっていることであり、目標としているところです。中
医学という古典を集めた観念的な言葉で語られた書物を、治療
というリアルな世界のなかで読み直していこうとしているわけで
す。
ちなみに、『養生訓』(1712年刊)を書いた貝原益軒(1630
年~1714年)が、晩年、自身の儒学思想をまとめるまで、気
一元論に触れることができませんでした。正学である朱子学の
圧力があったためです。
福岡藩のような江戸から遠い地域であっても、官僚の学問にそ
のような圧力があったわけです。
> 伴先生の論文「日本型東洋医学の原点 」に出ていた、林羅山という人が
> そのあたりの黒い思惑に関係しているのでしょうか?
林羅山は、幕府の威光を借りて朱子学を正統な学として広めよ
うとしただけだと思います。
〔注:ここからは、人民を統治するための学問である、あるいは
そのように利用された朱子学の内側からの解説となります。〕
平和というのは秩序があるということを意味しています。そして
秩序のなかには、人々がその地位におけるあるべき姿(理)で
存在している(気)という自覚が必要です。自分のノリを越えず、
他者を傷つけないという、「社会の相互関係における養生」のよ
うな節制が、そこには必要となります。
戦国時代―下克上なんでもありの自由な世界から、秩序ある平
和の世界への大転換の思想の基礎を、徳川家康は朱子学のな
かに見出したとも言えるでしょう。
朱子の著書を読んでみると、彼がいかに謙虚で、いかに丁寧に
学問を築いているかということが理解できます。孔子が戦国時
代に平和のあり方を希求した世界を構築したように、儒教は秩
序というもののあり方を、仁すなわち愛とその表現としての礼の
側面から、構築していったものです。
自分自身を戒めるための礼という側面が、あるべきあり方とい
う理念が構築されることによって、他者をも縛る法になり徐々に
強制力を持つようになるのは、現代社会でも同じことです。
自身の身を守ると同時に他者をも罹患させまいという道徳的な
要請であったマスクの使用や罹患後の謹慎(礼)が、いつのま
にか法で強制されるような事態になっていく(法)ようなものです。
ただその根本にある思いは、現代的な言葉でいえば愛に基づく
平和な理想社会を作り上げたいという願いであったということは、
確認しておきたいと思います。
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