拘わってはいけない微細なものとは何か
拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て判断するということです。
全体観とは何かというと、一の把握ということです。
存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには小さいなりの「ありよう」特徴を持っています。
テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を一括りのものとして把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定めることができないと、妄想を構築することとなります。
妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑にはならないわけですけれども、人を指導したり、治療をしたりする段になると非常な迷惑を与えることとなります。
妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人がほとんどでしょう。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみると、それを持たない人はほとんどいません。こだわりがある時にはそこに充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。
ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべきでないところにはこだわらないという鑑別が難しいというところにあります。そのため、熱心に生きている人ほど、目の前にぶら下がっている言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。これが肯定的なことであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなことにも拘わる人までいるわけです。
「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。
実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。東洋の伝統においてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置きます。自己肯定する時の自己とは何かというと、今存在している自分自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情を基本とします。今存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向かって成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているものが四書の中の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」というものがこれで、言葉を換えると「自分自身と同じように隣人を愛する」ということであり「自分を大切にしながら公に奉仕する」という精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レベルに従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自身に当てはめて語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自分の位置に感謝を捧げそれを喜ぶ」ということとなります。
言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは「感謝する」ということであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこそが、拘りの中心でなければならないということです。それはまた。「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともなるわけです。
そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけない微細なものです。ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、遠くの微細な目に見えないもは大切ではなく、今 目に見えているそれそのものがまずは大切なことなのです。このことを一元流鍼灸術では、「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。
拘わってはいけない微細なものとは、全体観を持たずに「それ」を見て判断するということです。
全体観とは何かというと、一の把握ということです。
存在するものはすべて微細なものです。けれども、その小さいものには小さいなりの「ありよう」特徴を持っています。
テキストの「陰陽五行の使い方」のところで述べたように、その対象を一括りのものとして把握しても良いのか否か、ここをしっかりと見定めることができないと、妄想を構築することとなります。
妄想と思い込みは、自分の頭の中でやっている限りはたいして迷惑にはならないわけですけれども、人を指導したり、治療をしたりする段になると非常な迷惑を与えることとなります。
妄想という言葉を用いると、「そんなものは持っていない」と答える人がほとんどでしょう。けれども、この言葉を「こだわり」と変えてみると、それを持たない人はほとんどいません。こだわりがある時にはそこに充分に疑いの目を向け注意深く歩む必要があります。
ほんとうに問題となることは、拘わるべきところにこだわり拘わるべきでないところにはこだわらないという鑑別が難しいというところにあります。そのため、熱心に生きている人ほど、目の前にぶら下がっている言葉にこだわり、目の前に現れた人にこだわります。これが肯定的なことであればまだよいのですが、否定的な自分自身の心を痛めるようなことにも拘わる人までいるわけです。
「正しさ」それはどこにあるのでしょうか。
実はそのことがもっとも問題となることであり、解決の難しいことです。東洋の伝統においてはこのもっとも基本的な心の位置は、自己肯定に置きます。自己肯定する時の自己とは何かというと、今存在している自分自身を受け入れるところから始まり、子孫への愛情を基本とします。今存在している自分自身は毎瞬変化し成長するものですから、どこに向かって成長しているのかということが大切です。この方向性を定めているものが四書の中の「大学」です。いわゆる「修身 斎家 治国 平天下」というものがこれで、言葉を換えると「自分自身と同じように隣人を愛する」ということであり「自分を大切にしながら公に奉仕する」という精神です。この公=自己の範囲が、「大学」においてはその成長レベルに従って変化すると述べられています。実は、これを小人である我々自身に当てはめて語る時には、まさにいわゆる「足るを知る」「今ある自分の位置に感謝を捧げそれを喜ぶ」ということとなります。
言葉を換えると、今、我々がなすことのできるただ一つの正しいことは「感謝する」ということであり、「感謝する」心で歩むことへの拘りこそが、拘りの中心でなければならないということです。それはまた。「今、この喜びの中にい続けなさい」という指示ともなるわけです。
そこに心の中心を置き、そこから眺めて遠いものが、拘わってはいけない微細なものです。ここに心の中心を置いたままの状態で眺めた時に、遠くの微細な目に見えないもは大切ではなく、今 目に見えているそれそのものがまずは大切なことなのです。このことを一元流鍼灸術では、「見えたこと解ったことを積み重ねる」と表現し実践項目としています。
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