学ぶ姿勢:二態
学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。
一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。
外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。
内、というのは、自身の内なる叡智に照らし合わせることです。
この内なる叡智は、仏性とも言います。
東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感動した経験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味をこれも古人の解釈などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書いてみたりします。古人が本当に言いたかったのはこれではないのかとか、このあたりの言葉の解釈は明確にしにくいので後人に託させていただきますなどと述べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の言葉を蘇らせようとします。よくある学問の方法です。
これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自らの内なる叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機として、あるいは師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出していく作業を行うわけです。
考えてみると前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は、自身の内なる叡智と学びたい東洋思想とが感応しあったことからその厖大な努力が始まっています。けれどもいつの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうにして日常の作業と同じように積み重ねられていきます。
けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる理由はその叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった感動は、外なる叡智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋学あるいは朱子学としてまとめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典を、内なる叡智に従って彫刻し直し、後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整えてくれたわけです。
東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め続けるのは外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かということは自身の内なる叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそうな師について学ぶわけです。いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上げして、治療家になるために再生しようとしているわけです。
けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということがわかります。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目の前に患者さんが現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する場となります。その時にあたって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた者たちは迷い出すしかありません。何も手を下せない。病名をつけてもらわなければ何も手を下せないのです。
これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していることを、患者さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器を知り、その自身の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨くという行為となります。
一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、統合の技術なのです。
学ぶ姿勢には二種類の方向性が大きく分けてあります。
一つは外に求めること、もう一つは内に求めることです。
外、の種類には、古文献などの文献・実験・師事などがあります。
内、というのは、自身の内なる叡智に照らし合わせることです。
この内なる叡智は、仏性とも言います。
東洋思想を学ぶ者は、そこに古代の聖人の叡智を学ぼうとします。叡智に触れ感動した経験が、学ぶ動機になるのです。古文字を解き明かし難解な言葉の意味をこれも古人の解釈などを参考にしながら読み解いていく果てに、自身も解釈を書いてみたりします。古人が本当に言いたかったのはこれではないのかとか、このあたりの言葉の解釈は明確にしにくいので後人に託させていただきますなどと述べ連ねるわけです。そうして、正確な古人の言葉を蘇らせようとします。よくある学問の方法です。
これに対して、聖人は書物など読まなかったではないかという批判とともに、自らの内なる叡智を直接的に摸ろうとする学び方があります。あるいは書物を契機として、あるいは師匠の言葉を契機として、自らの内なる叡智=仏性を洗い出していく作業を行うわけです。
考えてみると前者の文献学的な積み重ねのもともとの動機も実は、自身の内なる叡智と学びたい東洋思想とが感応しあったことからその厖大な努力が始まっています。けれどもいつの間にかその感動は失われて、言葉が、学問が、おうおうにして日常の作業と同じように積み重ねられていきます。
けれども時々気がつくのです。欲しかったのは叡智であると。そして学んでいる理由はその叡智を探しているのであると。気がつくべきなのです。最初にあった感動は、外なる叡智と自身の内なる叡智の感応であったということに。儒教が宋学あるいは朱子学としてまとめ直された理由はここにあります。玉石混淆の古典を、内なる叡智に従って彫刻し直し、後進が自身の叡智を磨きやすいよう道を整えてくれたわけです。
東洋医学の学び方も実は同じです。秘伝はないか、有難い言葉はないか、と求め続けるのは外を求め続けているのです。けれどもそれが秘伝であるか否かということは自身の内なる叡智に問わなければ実はわかりません。そこで信用できそうな師について学ぶわけです。いわば今、自分自身が持っている器をいったん棚上げして、治療家になるために再生しようとしているわけです。
けれども患者さんを目の前にしたとき、同じ智の方法は通用しないということがわかります。秘伝を求めるという夢遊病のような世界から目が覚めてみると、目の前に患者さんが現実として存在している。それは自身の内なる叡智を表現する場となります。その時にあたって、叡智を磨くことを怠り言葉を追い求めていた者たちは迷い出すしかありません。何も手を下せない。病名をつけてもらわなければ何も手を下せないのです。
これに対して叡智を磨いている者たちは、今、知っていること理解していることを、患者さんの身体を通じて統合するという作業ができます。これが、自身の器を知り、その自身の器の内側を搗き固めるという作業であり、内なる叡智を磨くという行為となります。
一元流鍼灸術でお伝えしていることはこの、統合の技術なのです。
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