■言葉の指す向き
言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する諫言。
この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となります。
けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となります。
この二者の差は歴然としているものです。
道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者を支配しようとするところにあります。
己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるところにあります。
己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。
■己と他者
さてそれでは、己と他者とを区別する行為は道を行ずる者の行為であろうか、という疑問がここに生じます。
道を行ずるということは、自他一体の理の中に自らを投与するということでもあります。そこに、あえて他者を設けて自らと分け、道を説かずにおくという行為があり得るのでしょうか。
ここに実は、自らの分を定めるという意識が働くこととなります。
教育者として自らを定めるのであれば別ですが、道を行ずる者は先ず第一に己を極めることが義務となります。そしてこの己を極めるという行為は一生継続するものです。その行為の合間に他者を入れる隙などは実はあり得ませんしあってはならないことだと私は思います。
ところが、学ぶものには語る義務が生ずる、後進を導く責任が生ずる。そこを道を行ずるものとしてどのように乗り越えていくかということが、ここで問われていることです。
そしてそれは、他者として彼らに道を語るのではなく、自らの内なる者として、同道の者として、己自身に対すると同じように道を究める努力をともにする。このことを提示する。ということでしか有り得ないと私は考えています。
■違和感の大切さ
違和感は、自身の常識と他者の常識との間の違いによって起こります。
常識というものはそもそもその人生における自身の姿勢を決定付けているもの。いわば、ものの見方考え方の基本です。
違和感を持つということは、自分自身の常識に不安を持つということです。ここにおいて初めて、自身の概念の殻を打ち破って、他者との出会いが始まるわけです。自身の常識を疑うことによってはじめて、新たな世界がその視野に開かれることとなるわけです。
教育というのは、他者による洗脳です。これは言葉を換えると、新たな世界観を提示し修得させるということになります。
現行の教育機関において、その多くが言葉を使って行われているため、教育の基本として言葉が優位となりがちです。すなわち言葉を多く持っていることが教育者の能力とされがちなわけです。
けれども臨床家になるための教育は、そういうものでは実はありません。事実を観、それをどのように表現して他者の発した臨床の言葉とつなげて理解しなおしていくのか。このことを通じて、より深い正確な臨床へと自身の行為をつなげていこうとする。この過程を修得するということがポイントとなります。
言葉、というものは恐ろしいものだと思います。
読む言葉、語る言葉に、指す言葉。
武士道における言葉は発するものの内側に肉薄する言葉でした。
他者に対するものではなく、己に対する諫言。
この同じ言葉が、他者に向けられたとき、それは他者を支配し傷つける刃となります。
けれどもそれが己に向けられたとき、己を磨く砥石となります。
この二者の差は歴然としているものです。
道徳を説くものの醜さは、己に向けられるべきこれらの言葉を他者に向けて発して、他者を支配しようとするところにあります。
己に向けられたものの美しさは、自身の切磋琢磨の目標としてこれらの言葉を用いるところにあります。
己に向けた言葉を他者に向けぬようくれぐれも注意していきたいものです。
■己と他者
さてそれでは、己と他者とを区別する行為は道を行ずる者の行為であろうか、という疑問がここに生じます。
道を行ずるということは、自他一体の理の中に自らを投与するということでもあります。そこに、あえて他者を設けて自らと分け、道を説かずにおくという行為があり得るのでしょうか。
ここに実は、自らの分を定めるという意識が働くこととなります。
教育者として自らを定めるのであれば別ですが、道を行ずる者は先ず第一に己を極めることが義務となります。そしてこの己を極めるという行為は一生継続するものです。その行為の合間に他者を入れる隙などは実はあり得ませんしあってはならないことだと私は思います。
ところが、学ぶものには語る義務が生ずる、後進を導く責任が生ずる。そこを道を行ずるものとしてどのように乗り越えていくかということが、ここで問われていることです。
そしてそれは、他者として彼らに道を語るのではなく、自らの内なる者として、同道の者として、己自身に対すると同じように道を究める努力をともにする。このことを提示する。ということでしか有り得ないと私は考えています。
■違和感の大切さ
違和感は、自身の常識と他者の常識との間の違いによって起こります。
常識というものはそもそもその人生における自身の姿勢を決定付けているもの。いわば、ものの見方考え方の基本です。
違和感を持つということは、自分自身の常識に不安を持つということです。ここにおいて初めて、自身の概念の殻を打ち破って、他者との出会いが始まるわけです。自身の常識を疑うことによってはじめて、新たな世界がその視野に開かれることとなるわけです。
教育というのは、他者による洗脳です。これは言葉を換えると、新たな世界観を提示し修得させるということになります。
現行の教育機関において、その多くが言葉を使って行われているため、教育の基本として言葉が優位となりがちです。すなわち言葉を多く持っていることが教育者の能力とされがちなわけです。
けれども臨床家になるための教育は、そういうものでは実はありません。事実を観、それをどのように表現して他者の発した臨床の言葉とつなげて理解しなおしていくのか。このことを通じて、より深い正確な臨床へと自身の行為をつなげていこうとする。この過程を修得するということがポイントとなります。
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