中医学からの離脱のために
では臨床家が古典を研究して書いたものは読む必要がないのでしょうか。黄帝内経とその研究書、傷寒論とその研究書、難経とその研究書などはどのように読めばよいのでしょうか。
中医学にこのような研究書がダイジェストとしてまとめられて呈示されています。また現存する原書の多くも出版されています。けれども、そこには統一された人間観が実はないため、考えれば考えるほど混乱してしまいます。それにもかかわらず、中医学がその言葉の多彩さによって教育機関に取り入れられたため、矛盾した言葉のままに、試験において正誤が定まるという事態が生じてしまいました。
古典の解説書を読みこんでいってもっとも喜びの深いことは、この、中医学の常識あるいは決めつけから脱出できるということでしょう。古典と格闘した人々は皆なそれぞれに悩み、苦闘し、あるいは自分を信じ励まして、新たな解釈を生み出して臨床に応用していったのだ、ということが理解できるためです。けれどもこれは実は、勉強することそのものを目標とはしてこなかった臨床家であれば、直感を働かせてあたりまえにやっていることだったりもします。まじめに勉強した人ほど、この既成概念の解体作業に苦労します。このような自己解体作業をするときに、多くの古人の格闘が励ましになるわけです。
古典というと、《黄帝内経》《傷寒論》《難経》あたりのことを指すのでしょうが、「古典を学ぶ」という場合にその範囲となるのは、それらの古典と格闘してきた臨床家や学者たちの解釈、試行錯誤の歴史を学ぶということになります。それが中医学を勉強してきた者にどのような衝撃を与えうるかというと、中医学の教科書的一般常識の転換、発想の自由度の確立、決め付けからの解放が得られるということになるでしょう。
ただ、これは、人間そのものをきちんと観ていこうとする姿勢の中から、古典と対決していた人々の言葉から得られるものであって、これを得るところまで学ぼうとすると、大変な労力が必要となります。
中国は文の国です。文というのは飾りという意味で、虚飾を内包しています。言葉で飾るわけですね。実態に即していないことも、言葉で飾ってごまかしてしまう。中医学を深く学んでいくと、そのような事態に直面することになります。増補を重ねている『証候鑑別診断学』などはその典型です。これは実は、古典についても言えます。一つの発想を得るとそれを基にして論理展開させ、世界のすべてを語ってしまおうとする傾向があるわけです。
臨床の場というのは実は、古典発祥の地です。それは古代であっても現代であっても同じことです。古代人が、古典を今から書き上げて千年後の人を驚かせようぜ、なんて思って書いていたわけではないと思います。これは重要なことだから忘れないように書き留めておこう、これまで聞いたこともないようなことだけれども、どうもこちらが本当っぽい。いちおう書き記して後人の参考に供そう。こんな日々の積み重ねが発酵して、陰陽五行論と経絡理論とでまとめられ、黄帝内経みたいな理念的な書物になっていったわけです。
じゃぁ、現代人の我々は、どうすればいいのでしょうか?まさに古典発祥の地である臨床の場に立ち、何を手がかりに患者さんにアプローチしていけばいいのでしょうか?実はそのあたりの腹の括り方、まとめ方を書いたものが《一元流鍼灸術の門》です。ここにはいわば、古典のエッセンスが入っています。そしてそれは、今、古典となっても恥ずかしくないものを書いていこうとする者に、発想法と手段とを提供しているものです。
では臨床家が古典を研究して書いたものは読む必要がないのでしょうか。黄帝内経とその研究書、傷寒論とその研究書、難経とその研究書などはどのように読めばよいのでしょうか。
中医学にこのような研究書がダイジェストとしてまとめられて呈示されています。また現存する原書の多くも出版されています。けれども、そこには統一された人間観が実はないため、考えれば考えるほど混乱してしまいます。それにもかかわらず、中医学がその言葉の多彩さによって教育機関に取り入れられたため、矛盾した言葉のままに、試験において正誤が定まるという事態が生じてしまいました。
古典の解説書を読みこんでいってもっとも喜びの深いことは、この、中医学の常識あるいは決めつけから脱出できるということでしょう。古典と格闘した人々は皆なそれぞれに悩み、苦闘し、あるいは自分を信じ励まして、新たな解釈を生み出して臨床に応用していったのだ、ということが理解できるためです。けれどもこれは実は、勉強することそのものを目標とはしてこなかった臨床家であれば、直感を働かせてあたりまえにやっていることだったりもします。まじめに勉強した人ほど、この既成概念の解体作業に苦労します。このような自己解体作業をするときに、多くの古人の格闘が励ましになるわけです。
古典というと、《黄帝内経》《傷寒論》《難経》あたりのことを指すのでしょうが、「古典を学ぶ」という場合にその範囲となるのは、それらの古典と格闘してきた臨床家や学者たちの解釈、試行錯誤の歴史を学ぶということになります。それが中医学を勉強してきた者にどのような衝撃を与えうるかというと、中医学の教科書的一般常識の転換、発想の自由度の確立、決め付けからの解放が得られるということになるでしょう。
ただ、これは、人間そのものをきちんと観ていこうとする姿勢の中から、古典と対決していた人々の言葉から得られるものであって、これを得るところまで学ぼうとすると、大変な労力が必要となります。
中国は文の国です。文というのは飾りという意味で、虚飾を内包しています。言葉で飾るわけですね。実態に即していないことも、言葉で飾ってごまかしてしまう。中医学を深く学んでいくと、そのような事態に直面することになります。増補を重ねている『証候鑑別診断学』などはその典型です。これは実は、古典についても言えます。一つの発想を得るとそれを基にして論理展開させ、世界のすべてを語ってしまおうとする傾向があるわけです。
臨床の場というのは実は、古典発祥の地です。それは古代であっても現代であっても同じことです。古代人が、古典を今から書き上げて千年後の人を驚かせようぜ、なんて思って書いていたわけではないと思います。これは重要なことだから忘れないように書き留めておこう、これまで聞いたこともないようなことだけれども、どうもこちらが本当っぽい。いちおう書き記して後人の参考に供そう。こんな日々の積み重ねが発酵して、陰陽五行論と経絡理論とでまとめられ、黄帝内経みたいな理念的な書物になっていったわけです。
じゃぁ、現代人の我々は、どうすればいいのでしょうか?まさに古典発祥の地である臨床の場に立ち、何を手がかりに患者さんにアプローチしていけばいいのでしょうか?実はそのあたりの腹の括り方、まとめ方を書いたものが《一元流鍼灸術の門》です。ここにはいわば、古典のエッセンスが入っています。そしてそれは、今、古典となっても恥ずかしくないものを書いていこうとする者に、発想法と手段とを提供しているものです。
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