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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

....弁病について

今回の読み合わせは、267ページの弁病から、291ページの弁証論治の最後まで行いました。初版の時に書いていた内容と、第二版で書き加えた内容とが少しづつ違っていて、我ながら興味深く読み進みました。


「弁病」という概念についての問題意識は初版の時からあったため、記載が簡略になっています。目の前にいる患者さんを一人の人間とみるところから東洋医学は始まるはずなのに、病気で分類してしまうなんて西洋医学みたいなことをしてもいいのだろうかという疑問があったわけです。

けれども、弁病そのものは隋の『諸病源候論』を持ち出すまでもなく、東洋医学の伝統の一角をなすものです。また、伝統的な治療法を参考にする場合、これは避けて通ることのできないところでもあります。

けれども弁病をするということには大きな欠点があります。それは、人間をみるのではなく疾病をみている、疾病のカテゴリー分けの中に人間を落とし込んでしまう危険がある、ということです。


中医学ではこのカテゴリー分けが発達して、証候鑑別診断学となって大きなウェートを占めています。そしてこれは、病気をカテゴリーに分けて症状を押さえ込むという意味での治療効果を高めようとしている西洋医学と連携しやすい部分になっています。

けれども一元流鍼灸術では、この疾病のカテゴリー分類の中に人間を入れ込んでいくことから徐々に離れ、「弁病」ではなく、人間を観る、そのための弁証論治をする、というところに現在、着地しています。さまざまな疾病を起こしている―あるいは起こす以前の―人間の生命状況に、より着目しているわけです。


だからといって、病んでいる部分をみることをまったくしなくなっているわけではありません。そのことは、290ページの「八、弁証論治」の中に「弁証は主訴に対して行います。ここには、主訴と全身状態の変化とが関連しているか否かという鑑別が非常に重要なものとなります。」という形で述べられています。これは、実は、疾病治療という観点から私が書いた、おそらく最後の言葉です。

一元流の弁証論治は、人間理解のために行われるものであって、主訴の理解のためにあるわけではない。主訴は、患者さん本人が気にしているかもしれないけれども、実は、患者さんの身体をよくする契機となるものであるかもしれず、また問題の中心にあるものではない可能性もあるから、主訴にこだわりすぎてはいけない。という地点に現在では着地しており、より全体的な観点から弁証論治を定めることを行っています。

症状をとるのが治療の目標ではなく、生命力を高めることが治療の目標である。そのためにその患者さんの全体を理解しようとするものが弁証論治の目的であると考えているわけです。


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