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一元流鍼灸術

一元流鍼灸術の解説◇東洋医学の蘊奥など◇HP:http://www.1gen.jp/

診断地点は、全身の生命の縮図



kさんが書かれている、「肝木の身体観と難経鉄鑑の六十六難の図(杉山流の行灯の図も)は同じものである」「どれも生命を観て描いたものだから」という言葉はとても大切です。

kさんがいわれているとおり、「どこに焦点を当てて表現するのかで、図も違ったものに見えるけれど、見ているものは生命で、すべての図の元である、」ということなのです。

生命を観るということは、私たちは日常的な臨床で行っていることです。それをどのような角度から捉えなおしていくのか、ということが、生命を構造的に観ていくということの意味です。

時代によってもっとも大切なものがなにかということが変化してきたということは、二つ前のお話しで述べています。すべては気一元の生命についての話であり、一人ひとりが臨床で捉えている生命そのものの解説です。その中で、それぞれの古人が重視しているものが異なるため、語り方が変化し、それを図にしたものが異なってくるわけです。


そして、このことに気が付くためには、図を見ても図に囚われていてはいけない。図を離れて一つの生命である人間を見、その気一元の生命を見ることのために図を利用するという視点が必
要である。ということになります。生命が先、図が後。生命が先、言葉は後からつけたものということです。生命を見ようとし、見えた生命を表現するために工夫されたものが言葉であり図である。そうでなければいけない。ということです。言葉はとても自由なので、言葉の中身を理解できないまま言葉だけ伝承されたりすることが往々にしてあります。リアリティーのない、魂のない言葉が、真実の叫びの隣にそびえていたりします。読者はその壁を乗り越える必要があります。

「生命を見ようとし、見えた生命を表現するために工夫されたもの」ということから今回より具体的なものとして、脉診の話をすることとなりました。生命を見るというと観念的になりがちですので、脉を診るということに置きかえていったわけです。

一元流鍼灸術では、四診における診断地点を、全身の生命の縮図であると考えています。今回の話で出てきた、脉処もその一つです。背候診における背部、腹診における腹部、経穴診における十二原穴、尺膚診における尺膚、舌診における舌も、いわば小さな気一元の場所として捉えているわけです。

それぞれに表現における特徴はありますが、気一元の場所であるからこそ、先人が診断地点として遺してくれている。そう考えているわけですね。
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