気一元の観点というのは、観るところにその中心があるのではなく、観る姿勢にその中心があります。観る姿勢とは何かというと、観る前に心を定めるということであり、観ている時にもその定めた位置から離れないということです。とうぜんそれは、弁証論治を立て、治療を進めていく際にも常時離れていないことを確認し続ける位置です。一点の場所、それは臍下丹田です。
臍下丹田の位置というのは味わってみるとご理解できると思いますが、生命そのものを確認することのできる唯一の精神の位置なのです。生まれ落ちて以来、私はこの生命を維持するため、環境との調和を維持するために、不安と戦いながら外の世界のことを学び続けてきました。その手段には、テレビや書物の他、五巻を尽くしてたどり着くことのできた、自分の行為に対する他者〔注:その初期は家族〕の反応を盗み候うということがありました。私の存在は赦されているのか否か、それが意外と課題となりました。
そのような生活姿勢を継続することによって私は大切なものを気づかないまま失っていきました。それは、今、自分が生きているという実感です。幼稚園の頃までは確かにあった生命に触れる喜びを、いつの間にか見失い、文字に流され、映像に流され、他者の言葉に囚われて、いつの間にか操り人形のようになってしまって、今ここに生命そのものを感じとるという生命感覚を失っていったのでした。
このこと、この同じことが東洋医学の勉強の中で、あるいは日々の弁証論治の中で、あるいは日々の臨床の中で繰り返されている可能性があります。
それは、別の言葉で言うと、中心を忘れて些末なものに囚われるということです。言葉というもので表現されると、それが些末なことでも大切なことのように見えるものです。愚劣なテレビや新聞であっても、その報道を目にするとさも大切なことのように思えてしまうことと同じです。情報に振り回され、言葉に振り回されて、今生きて存在している生命と生命との出会いの場を、忘れてしまうのです。その忘却の原因は何よりも自身の生命へのリアリティの欠如にあります。
リアリティとは何か。これが問題です。先ほど、臍下丹田と述べました。意識の位置を臍下丹田に置くと、思考と感情が止まります。思考と感情が止まったそのままの状態で目を上げると、自身の生命そのものの姿が見えてきます。あまりにも美しい生命そのもの、繊細で輝かしくけなげで力強いそこに、意識を解放してみると、それまでの拘りや執着がまるで背広についた埃のように取れていくことがわかります。そして理解すべきことは、言葉以前の絶対の場所が人間にはあるのだということです。
ここに意識の位置を置きます。そのまま身の回りに起こる現象を眺めていきます。患者さんの訴えを聞き病因病理を考えて弁証論治を立てるということは、このような精神の位置において行なわれるべきことです。文字を読み取り東洋医学の概念を学ぶことは、このような精神の位置において行なわれるべきことです。言葉というものはそれが原初的なものであればあるほど、述べられている言葉の前提としてこのリアリティが存在しています。言葉という不自由な表現方法をとりながら、それをも使って、感じ取ったこと見取ったこと理解したことを残したかった。その誠実さは古人においてより切実だったからでしょう。
私どもはそのようにして遺されている言葉から学んでいます。学んでいるのですが、言葉に先を越されがちになるのは、自身の中にリアリティを欠いているためです。そして迷い始めるのです。けれども、今ここに私どもは存在し、その存在のリアリティは古代も現代もありません。古人も現代人もなく、そこから言葉を紡ぎ出そうとする時、我々は苦悶しながら生命の一言を吐き出すのです。その一言のリアリティは、古人のもつものと何ら変わりがありません。それほどの誠実さを私は持ち、それほどの存在へのリアリティを私は持っているということが大切なことであり、そのことをこそ私どもは自分自身に対して毎瞬問い続けていることなのです。
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