...■気の濃淡を調える
全身の生命力には濃淡があります。気の濃淡と呼んだりします。この、気の濃淡を調えるという観点から全身の状況やそれに対する処置をみると、また別の大きな見方ができます。全身の生命力のバランスをよくすることと、それにともなう疏通(生命力という風が通りやすくなる)の向上による、生命力の活性化を促すことがそれです。生命力が補われるということの中身の半分は、「生命力が活性化される」という言葉に言いかえることができます。
生命力が活性化されることによって、生命力全体に余裕が出てきます。さえぎるものが少なくなり活き活きとした生命がそこにバランスよく生じてくるためです。その生命力の余剰が、成長していく生命力の原資として、あるいは来るべき病や外敵による危機に備えて、あるいは加齢に伴う老いに備えて、あるいはやるべき人生の目的を遂げる頑張りを支えるための貯蓄として蓄えられていきます。それが補腎という言葉の意味です。これこそが、生活の基本を養生という身を慎むことにおくべきであり、未病を治すという、東洋医学の伝統的な発想の基盤となります。
> わたしはほとんどを一元流で学んでいるので「補瀉の手技はない」
> ということが「普通」に感じてしまうのですが、中医学では補瀉の
> 後には必ず補瀉の手技について述べられているのでしょうか?
そうです。
> このあたりの説明を読んでいて、少し混乱するのは、「補瀉」と
> 「補瀉の手技」がまるで同義で語られているように感じるから
> なのかもしれません…それが中医学の「普通」なのでしょうか?
そうです。中医学というのは実は、言葉が積み重なっているだけの、問題の多い学問なのです。
> > ただ、思うのですが、外科手術も生命力にとっては補法というこ
> > とになります。しかし、それはその後の手当―養生がしっかり管
> > 理されているからそうなるのであって、腹を開けて臓腑を切り出
> > すという行為が補法であるとは考えにくいです。そのままにして
> > おくと死んでしまいますから。
>
> 壊死し始めた足を切り落とすのも、補法になるということですね。
> その後の手当がしっかり管理されていれば…。
そうですね。
> なるほど~。そういえば、鍼は小さな傷を作ることで、お灸は小さな
> 火傷(最近は痕がつかない優しいものが多いかな?)をさせることで
> そこを活性化させてるんですもんね。
> 鍼灸って、優しい道具ですね~。
そうですよね、ほんとうに。
> > 今では補瀉の手技について、次のように考えています。
> >
> > ・ 基本的には、手技の中に補瀉はない。補瀉というのは全身
> > の生命力との関係で考えるものである。
>
> これは上で書いていたように、その人・そのときの許容範囲によって
> 補となるか瀉となるかが決まる、と同じ意味でしょうか?
そうです。
ですから、補瀉という表現よりも、どのように身体全体が変化し
ていくのかなと、眺めるということになりますね、実際は。
> > ・ 経穴に対する(補瀉の)手技は、全身の生命力に対する補
> > 瀉とは、関係ない。別の課題である。アプロ-チ方法と呼ぶ
> > べきものである。鍼でも灸でも手技でも。
>
> ここが具体的にイメージできませんでした。
> 経穴を変化させるには、その経穴に適した刺激を与えないといけない、
> という意味でしょうか?そしてそれは全身の生命力と関係がない…?
中医学などでまとめられている補瀉の手技は、経穴に対して行う鍼の手技や灸の壮数などのことを指します。そのように表現されている補瀉の手技と、全身への影響とを混同するべきではないということを述べています。
中医学では、経穴の形状をみることなしに補瀉の手技をします。そのような補瀉こそが本道であると信じている人がまだまだたくさんいるので、この言葉を述べています。
> > ・ 経穴と手技とは、その部位の受容性との関係が存在してい
> > るので、そこで何が起こっているのかは、経穴の変化などを
> > そのつど観察しなければわからないものである。
>
> これは何をどうやっても思惑通りにいくわけではない、どうなったかは
> 経穴に聴くしかない、ということで良いでしょうか?
そうです。そういうことですね。
全身の生命力には濃淡があります。気の濃淡と呼んだりします。この、気の濃淡を調えるという観点から全身の状況やそれに対する処置をみると、また別の大きな見方ができます。全身の生命力のバランスをよくすることと、それにともなう疏通(生命力という風が通りやすくなる)の向上による、生命力の活性化を促すことがそれです。生命力が補われるということの中身の半分は、「生命力が活性化される」という言葉に言いかえることができます。
生命力が活性化されることによって、生命力全体に余裕が出てきます。さえぎるものが少なくなり活き活きとした生命がそこにバランスよく生じてくるためです。その生命力の余剰が、成長していく生命力の原資として、あるいは来るべき病や外敵による危機に備えて、あるいは加齢に伴う老いに備えて、あるいはやるべき人生の目的を遂げる頑張りを支えるための貯蓄として蓄えられていきます。それが補腎という言葉の意味です。これこそが、生活の基本を養生という身を慎むことにおくべきであり、未病を治すという、東洋医学の伝統的な発想の基盤となります。
> わたしはほとんどを一元流で学んでいるので「補瀉の手技はない」
> ということが「普通」に感じてしまうのですが、中医学では補瀉の
> 後には必ず補瀉の手技について述べられているのでしょうか?
そうです。
> このあたりの説明を読んでいて、少し混乱するのは、「補瀉」と
> 「補瀉の手技」がまるで同義で語られているように感じるから
> なのかもしれません…それが中医学の「普通」なのでしょうか?
そうです。中医学というのは実は、言葉が積み重なっているだけの、問題の多い学問なのです。
> > ただ、思うのですが、外科手術も生命力にとっては補法というこ
> > とになります。しかし、それはその後の手当―養生がしっかり管
> > 理されているからそうなるのであって、腹を開けて臓腑を切り出
> > すという行為が補法であるとは考えにくいです。そのままにして
> > おくと死んでしまいますから。
>
> 壊死し始めた足を切り落とすのも、補法になるということですね。
> その後の手当がしっかり管理されていれば…。
そうですね。
> なるほど~。そういえば、鍼は小さな傷を作ることで、お灸は小さな
> 火傷(最近は痕がつかない優しいものが多いかな?)をさせることで
> そこを活性化させてるんですもんね。
> 鍼灸って、優しい道具ですね~。
そうですよね、ほんとうに。
> > 今では補瀉の手技について、次のように考えています。
> >
> > ・ 基本的には、手技の中に補瀉はない。補瀉というのは全身
> > の生命力との関係で考えるものである。
>
> これは上で書いていたように、その人・そのときの許容範囲によって
> 補となるか瀉となるかが決まる、と同じ意味でしょうか?
そうです。
ですから、補瀉という表現よりも、どのように身体全体が変化し
ていくのかなと、眺めるということになりますね、実際は。
> > ・ 経穴に対する(補瀉の)手技は、全身の生命力に対する補
> > 瀉とは、関係ない。別の課題である。アプロ-チ方法と呼ぶ
> > べきものである。鍼でも灸でも手技でも。
>
> ここが具体的にイメージできませんでした。
> 経穴を変化させるには、その経穴に適した刺激を与えないといけない、
> という意味でしょうか?そしてそれは全身の生命力と関係がない…?
中医学などでまとめられている補瀉の手技は、経穴に対して行う鍼の手技や灸の壮数などのことを指します。そのように表現されている補瀉の手技と、全身への影響とを混同するべきではないということを述べています。
中医学では、経穴の形状をみることなしに補瀉の手技をします。そのような補瀉こそが本道であると信じている人がまだまだたくさんいるので、この言葉を述べています。
> > ・ 経穴と手技とは、その部位の受容性との関係が存在してい
> > るので、そこで何が起こっているのかは、経穴の変化などを
> > そのつど観察しなければわからないものである。
>
> これは何をどうやっても思惑通りにいくわけではない、どうなったかは
> 経穴に聴くしかない、ということで良いでしょうか?
そうです。そういうことですね。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://1gen.blog101.fc2.com/tb.php/356-0589221f