> 生命力の濃い部分を薄い部分に運ぶというのは、例えば気滞を起こして
> いる部分に鍼をして気の流れを良くして、足りない部分にまわるように
> するのかな、とイメージしました。でもそれが瀉法…?
その通りの意図で述べています。
気滞をおこしているということはその部位の物としての生命力が厚くなっているということを意味しています。
そしてそのことはそのまま、その部位の動き―機能としての生命力の動きが悪くなっているということを意味しています。
生命力―気の動きが悪い(虚)ために滞留する(実)し、滞留する(実)ことによって、生命力―気が他の部位よりも厚くなっています。その滞留している生命力の中から、特に集中している一点を求めて経穴とし、そこに処置しようとする場合もあります。
気滞(実)すなわち動きの悪い(虚)ところを動かす、ということが全身の生命力にとっても良いことであろう、すなわち補として働くであろう、と考えて処置をするわけですから、これも補に違いないと言われているわけですね。その通りに思います。私は昔の教科書的な補瀉の尻尾を引きずっているので、局所への手技を指して瀉、と述べています。
気が多く集まって滞っているわけですから、その部位に対しては瀉法を行うということになります。集まっている気を散らそうとするからです。けれどもそれが全身にとっては補いになるわけですね。
ここをさらによく考えてみると、気滞だから鍼でぐりぐり瀉法をするということではなく、物としての気滞を起こしているということは、動かす力すなわち機能としての気が虚しているわけだから、灸や温灸をして補うことで効果を得られるということも考えられます。捻挫や切り傷を入浴によって治すというのは、この発想に通じます。
物としての生命力の濃い部分に機能としての生命力を補うことで、物としても機能としても生命力が充実し、停滞して気滞と呼ばれるようになっていた、生命力の動きが良くなります。そのような部位としての生命力が充実することによって、全身のバランスがとれていく。それを狙う処置方法もあるということもまた、ここでは述べていることになります。
患者さんの身体に起こっている生命力の状態を基にして考えると、手技による補瀉というものがいかにいい加減なことか理解できると思います。
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