■補瀉と日常生活・養生は同じ
生命力の観点から補瀉を考えると、臨床という垣根を超えて、日常生活そのものを、その人に合ったものかどうかを考えることになります。いわば、補瀉と日常生活・養生は同じということになるわけです。この言葉は、古来の補瀉論に執着されている方々へ、衝撃を与えるものとなるでしょう。
臨床の中に、生活提言や養生を持ち込んでくることが、補瀉論をこれまで述べたようによく考えるならば、できてくるわけです。
■ さて、それでは、補瀉とはなんだったのでしょうか?一元流鍼灸術の会員がこれまで述べていたことや、世間でいわれている手技の補瀉を中心に、まとめ直してみましょう、数字をあげて列挙している三項目は、一元流鍼灸術のメイリングリストの中で提示されていたことです。改めて読むとレベルがとても低くて恥ずかしい限りです。いわゆる、とんでも補瀉論ですね。【伴:】として、その間違いを正しています。
×1症状を取ることが瀉であり、生命力を充実させることが補である。【伴:これは症状とは何かを考えられないことによる暴論ですね。】
×2おとなしい手技が補であり、強い手技が瀉である。【伴:これは処置とは、身体状況との関係にあるということを考えられないことによる暴論ですね。処置をした後に身体がどのように変化しているのか観察することによって始めて、処置によって何が行われたかを知ることができます。そしてこれは、その後の時間経過によってもまた変化していくものです。】
×3処置部位の生命力を充実させるのが補であり、削ごうとするのが瀉である。【伴:これも、2についての批判をよく考えると、おかしいということが理解できるでしょう。】
その上で、入浴や便通あるいは食事などの行為が、死にいたることもあるということを考え合わせていくなら、補瀉にはその上の段階、日常生活を考えていく段階があり、養生をそこから組み立てていくことができるということが理解できます。
すなわち、基本的な生命力の充実の度合によって、日常生活のどの局面においても、生命力を損傷する事態となることがあり得るしまた、生命力を充実させる事態となることがあり得るということです。
生命力の観点から補瀉を考えると、臨床という垣根を超えて、日常生活そのものを、その人に合ったものかどうかを考えることになります。いわば、補瀉と日常生活・養生は同じということになるわけです。この言葉は、古来の補瀉論に執着されている方々へ、衝撃を与えるものとなるでしょう。
臨床の中に、生活提言や養生を持ち込んでくることが、補瀉論をこれまで述べたようによく考えるならば、できてくるわけです。
■ さて、それでは、補瀉とはなんだったのでしょうか?一元流鍼灸術の会員がこれまで述べていたことや、世間でいわれている手技の補瀉を中心に、まとめ直してみましょう、数字をあげて列挙している三項目は、一元流鍼灸術のメイリングリストの中で提示されていたことです。改めて読むとレベルがとても低くて恥ずかしい限りです。いわゆる、とんでも補瀉論ですね。【伴:】として、その間違いを正しています。
×1症状を取ることが瀉であり、生命力を充実させることが補である。【伴:これは症状とは何かを考えられないことによる暴論ですね。】
×2おとなしい手技が補であり、強い手技が瀉である。【伴:これは処置とは、身体状況との関係にあるということを考えられないことによる暴論ですね。処置をした後に身体がどのように変化しているのか観察することによって始めて、処置によって何が行われたかを知ることができます。そしてこれは、その後の時間経過によってもまた変化していくものです。】
×3処置部位の生命力を充実させるのが補であり、削ごうとするのが瀉である。【伴:これも、2についての批判をよく考えると、おかしいということが理解できるでしょう。】
その上で、入浴や便通あるいは食事などの行為が、死にいたることもあるということを考え合わせていくなら、補瀉にはその上の段階、日常生活を考えていく段階があり、養生をそこから組み立てていくことができるということが理解できます。
すなわち、基本的な生命力の充実の度合によって、日常生活のどの局面においても、生命力を損傷する事態となることがあり得るしまた、生命力を充実させる事態となることがあり得るということです。
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